【掌編小説】追放者

※原稿用紙10枚程度の短い作品です。

 浅野あさの先生、亡くなったのよ。
 二週に一度、定期便のようになっている電話でふと思い出したように母がそう言った。
 七月の終わり。いかに北の地とは言え、夏の盛りを迎えようとするこの季節、札幌も連日暑い日が続いている。それでも私は一瞬、背中に冷たいものが触れたような気がした。
『大動脈解離ですって。まだ定年前なのに、本当にお気の毒』
 そう口にはするが、明らかに母は他人ごとの口吻くちぶりだった。無理もない。浅野一真あさのかずまは母にとって、娘の中学三年時の担任以外の何者でもないのだから。会ったのだって、授業参観と個別面談くらいで、おそらく顔も覚えていないに違いない。
「そうなの」 
 努めて平静を装い、私は返事した。それで、その話はおしまいだった。母はまたつらつらと、小さな町——私の生まれ育ったあの深大寺の町の、さして面白くもない噂話のあれやこれやを言い募り始めた。
 だが、もう母の話は私の耳には届いていなかった。先生が死んだ。その事実は私を一気に十五歳の、あの緑多い住宅地の中を自転車で駆け抜けていた少女に戻していた。

 浅野一真は、数学教師だった。どちらかといえばベテラン勢が担任となることが多い三年の中で、ひとり二十代半ばということもありよく目立っていた。殊に女子たちは、背が高くすっきりとした顔立ちの彼にほとんどアイドルのような熱を上げていた。授業のあとや放課後、隙を見つけては彼の周りを取り囲み、やれ彼女はいるのか、やれ休みは何をしているのかなどと囃し立てた。
 浅野の方はといえば、彼女たちの攻撃を上手く躱しているという感じだった。元々彼の風貌で、あんな風に柔和な物腰であれば、女子中学生でなくとも女に囲まれるのは常だったのかもしれない。そしてそういう時どうあしらえばいいのか、熟知していたのだろう。
 私は彼を取り囲む中には加わらなかった。けど、そんな風に押し寄せる女子たちをいなす彼を見るのが好きだった。そこに潜む大人の賢さというか、狡さみたいなものが、たまらなく魅力的に見えたのだ。あの時までは。

 あれは一学期末のテスト期間中のことだった。午前で試験を終え、また翌日の試験に備えて誰も彼も早めに学校を出ていた。私も例に漏れず試験が終わるなりすぐ家に帰っていたのだが、さあ明日のテスト勉強をしようという段になって、翌日の試験科目である数学のプリントを学校に忘れているのに気づいた。浅野から似た傾向の問題を出す、と宣告されていたものだ。そんなに難しい問題では無かったけれど、手元に無いのはやはり不安で、私は仕方なく学校まで取りに戻ることにした。
 七月上旬。例年より十日以上梅雨明けが早かった東京は、突き抜けるような夏空で、自転車のペダルを漕ぐ度に首筋の汗が流れ出るのが分かった。都道十二号線沿いの樹々の上に陣取った蝉たちの声は姦しく、神代植物園の横を通り過ぎる頃には緑の匂いの濃さに噎せ返りそうになった。
 学校に到着し、私は額の汗を拭きながら、しんと静まり返った廊下を足速に歩いた。校内で人に会い、説明などで時間が取られるのも面倒だと思ったのだ。
 教室の前までやってきて、声がするのに気づいた。低く落ち着いた声と、甘く華やいだ声。それが睦まじく囁き合っている音だった。
 私はそっと教室を覗き込んだ。中にいたのは、浅野とクラスメイトの藤野ふじのまひろだった。
 まひろは自分の席に座り、ノートを広げている。
   ここはこうだっけ?何かをノートに書き、彼に見せる。あ、そうじゃなくてここは、と浅野は屈み込み、彼女の指からさっとそのピンクのシャープペンを抜き取って何か書き始めた。あ、そうか。じゃあこれはこうかな。今度は彼の指からまひろがシャープペンを取る。そうそう。それで正解。浅野が今まで見たようなことのない顔で笑いかけると、まひろの方も眩しそうな笑みを彼に向けた。
 たったそれだけだった。しかし、それだけで十分だった。
 私は気づかれないようにそっとその場を後にした。そして急いで自転車に乗り、元来た道をひた走った。
 家に辿り着いても、もうテスト勉強どころでは無かった。自分の部屋に籠り、ベッドに寝転ぶと、何度も何度もさっき目にしたばかりの光景を反芻した。
 藤野まひろは、クラスで一番浅野から離れたところにいるような生徒だった。彼の周りで騒ぐこともなく、騒いでいる様を見つめて私のようにほくそ笑んでいるわけでもなく。彼になど本当に関心がないように見えた。
 背は高いが目立つような美人でもない。休み時間も友達に混じらずにひとり文庫本を広げているような女子。変わり者と言っていい。そのまひろが、先生にあんな顔をさせ、先生にあんな顔を見せている!
 瞬間、私を支配したのは怒りだった。義憤といってもいいかもしれない。強い塊が身体中を駆け巡った。あんなことは絶対に許してはいけない。先生にもまひろにも、罰が下るべきだ。そしてその罪を告発するのは、彼らのあの姿を見た私しかいない。
 翌日のテストは散々だった。けれど、試験最終日ということもあり、私は何人かの友達と学校帰りにドーナツショップに寄ることになっていた。友達の中には、いつも浅野を囲んでいるメンバーもいた。
 ひと頻りテストについての話が終わったところで、私はおもむろに切り出した。
「実はさ、私、この前見ちゃったんだよね……」 

『そう。それで、また浅野先生の話だけど』
 母が再び浅野の話に戻ってきて、私は我に返った。いつの間にか鳥肌が立っている。
 浅野先生は藤野まひろと付き合っている。
 その噂は瞬く間に学校中に広がった。否、学校だけではない。町中に広がった。熱心に浅野を追いかけていた彼女たちを使えば、面白いほど事は思い通りに進んだ。
 もちろん噂は噂でしかなく、誰もそれを確かめることは出来なかった。浅野は三年の担任ということもあり、途中で交代というわけにもいかず、残りの二学期三学期は針の筵状態だった。それは、相手のまひろも同じだった。結局、浅野は翌年他校へ異動となり、まひろは希望していた地元の進学校ではなく、知り合いがほとんどいない電車で一時間以上離れた私立校へと進んだ。私は彼らを追放することに成功したのである。——だが。
『まひろちゃんて、本当に立派よね。あなたと同い年だなんて思えない。喪主も気丈に務めたそうよ。涙ひとつ見せないで。浅野先生とは最初変な噂を流されて可哀想だったけど、同じ教師になって、もう一度再会して結婚して。なんだか格好良いわ』
 母の無邪気な声が耳に響く。
 浅野とまひろの噂など、高校に進学した頃には誰も忘れ去っていた。噂を広めた私自身も忘れていた。再びそのことを思い出したのは、社会人になって数年経ってからのことだ。
 藤野まひろが母校に赴任した。しかも程なく、同じく再任していた浅野と結婚したのだ。
 ——中学生の時の噂は本当に大変だった。私、両親が離婚したこともあって、母ひとりの稼ぎでは塾にも通えなくて……。浅野先生、それを知って放課後、私の勉強に付き合ってくれるようになったの。きっとそれを見られて誤解されたのね。辛かった。でもあの時は本当のことなんて言ってもきっと誰も信じないとも分かってた。だから黙ってるしかなかったの。ただ先生にだけは申し訳なくて——ずっと、先生のことは忘れられなかった。
 同窓会で語った彼女の物語は一気に美談となった。優しい先生を想い続けて、やっと再会できた彼女は今度こそ恋に落ちたのである。
 酷い噂を流す奴もいるもんだな。誰だよ、最初言い出したのは。そんな風に犯人探しが始まったのは、それから間もなくのことだった。
 私は逃げた。ちょうど恋人に結婚を申し込まれ、彼の仕事の都合で北海道へ転勤することが決まっていた。犯人探しの追っ手はすぐそこまで近づいていたが、間一髪で逃れたのである。
 罪人を追放したはずの私が追放者となって十五年。
 今やほとんど地元に帰ることもなく、見知らぬ地で口を閉ざして暮らし続けている。
 まひろを褒め続ける母の声を、私は聞くともなしに聞いていた。
 あの日の見つめあって笑ったふたりの顔。
 あれが深大寺の夏の緑が見せた幻なのか、それとも現実なのか。
 今となってはもうわからない。
 真実は、あのときのふたりしか、知らない。

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