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【掌編小説】待ち人来ず

※今から20年ほど前、学生時代に書いた小説です。
拙い作品ではありますが、自分では好きな作品ですので掲載させていただきます。

 今日は、千鳥ヶ淵まで桜を見に行きます。
 以前からそこの桜がとても綺麗だということは、人づてにに聞き及んでいました。桜は、貴方が一番好きだった花です。その事もあって、いつかは見たいと思っておりましたが、何せ出不精のこの私、ずっと機会を逃して来ました。けれど今年は、折角九段下で働くことにもなりましたし、何より、今日は随分お天気が好いものですから、行ってみることに決めたのです。
 貴方が居なくなって三年。私は二十三になりました。
 最近では靖国の通りにも、軒並み大きなビルディングが立ち並ぶようになっています。道行く人々の顔も、ビジネス街らしく、どこかキッと取り澄まし、凛々しく感じられます。あの戦争が終わって、まだ漸く一年と少しばかり。けれど、この国の人々はもう、どうやら見えない未来に向かって歩き出しているようです。
 私も、去年の夏から、この近辺にある雑居ビルの一室で、事務の職に就くことになりました。貴方の厭がる『職業婦人』と云うやつです。貴方がいた頃は、あんなに貴方の御機嫌ばかり窺っていたのに。今ではあの頃あったはずの貴方との決まりごとなど、私はほとんど破ってしまっています。
 貴方が伸ばせというから伸ばした長い髪も切ってしまったし、貴方がやめろといったお化粧も、毎日欠かさずしています。それだけではありません。貴方が昔、私にくれた手紙の数々も、先の大空襲でとうに灰となってしまっており、ともすれば私は、貴方など最初から存在していなかったのでは無いかと、このところふと、そんな思いに捕らわれたりもするくらいです。
 どうやら三年の歳月が、良くも悪くも私を大人にしてしまったみたいです。
 ——三年前。貴方が私の目の前から居なくなった時。
 私にとって、それはあまりにも唐突な、正しく青天の霹靂とでもいうべき出来事で、正直なところ、私は思考するという行為を、一切忘れてしまいました。
 あの頃の私にとって、貴方は世界の全てでした。
 混沌とした時代でした。人々は皆、何処か病み、荒んでいました。日々目減りしてゆく食糧。痩せ衰えた子供。なのに、ラジオでは毎日の如く、『神国・日本』の華々しいまでの戦捷《せんしょう》が流れ、誰もが敗残など思い描く事の無かった、あの頃。
 そんな中で、ただひとつ、私が信じられたのが、貴方の温もりだったのです。
 貴方と手を繋いでいる時、私にはこの世で怖れるものなど、何もありませんでした。掌の温もりは刹那の絶対で、私はそれに酔い痴れている時だけ、自分を幸福だと思う事が出来ました。無論、それらが所詮幻想にしか過ぎないという事は、百も承知です。けれど、この世に、幻想よりも強固な真実など、在るでしょうか?
 あの頃、悲惨な世界は、それでも私の眸《め》に映る限り輝いて見えました。何でも無い言葉。貴方のあの、少し低い声。それを聞くだけで、私は例え戦禍の中でさえ、安堵する事が出来たのです。
 貴方の事が、好きでした。
 貴方の長い前髪。そしてそれに隠れたようにしてある、大きな眸《ひとみ》。濃くて長い睫毛。笑う時にはいつも必ず俯く癖。貴方という人間を造るその全てが、私にとってはかけがえの無いものでした。
 貴方は狡い人で、決して真実の自分など、表に晒したりはしないし、況してや自分の話など、何ひとつしてはくれませんでした。けれど、私はそれでも良かったのです。私が好きになったのは、正しくそういう貴方でした。真実の自分をひた隠し、他人に応じて演技を続け、いつしかどれが本物の自分かも分からなくなってしまう。それはそのまま、私自身の姿でした。誰よりも私に似た人。貴方は、私が初めて見つけた、『同じ世界の住人』でした。
 夢にも考えた事はありませんでした。
 貴方がいなくなってしまうなんて。
 今、目を閉じて思い出す貴方はいつも後ろ姿です。出征の日の、貴方の背中。あの日も今日と同じように、街には桜が咲き誇り、そうして、風に揺られては地へと降っていました。
 貴方は言いました。これから自分は、この国の為に働いてくる。自分なりに、一生懸命にやるつもりだ。だがその結果、もしかして命を落とす事もあるかも知れない。そうしたら、君は早くに自分の事など忘れてしまって、幸せに成ってくれ、と。
 貴方の唇には、あのお得意の笑みが浮かんでいました。散りゆく桜を愛する貴方です。きっとそれが、最善の方法だと思ったのでしょう。そして私は、それに微笑みで返しました。貴方の虚勢が分かるから。必死で潔さを演じようとする貴方を、困らせたくはなかったから。私もまた、極上の演技で以って、貴方に微笑んでいました。
 臆病な貴方と、同じく臆病な私。一生の別れとなるかも知れないそんな時ですら、私たちは互いの真実を口にする勇気を持ち合わせてはいなかったのです。勇気の無い人間は、淘汰されて当然です。私たちはだからこそ、この社会に馴染む事も出来ず、自分の世界で生きることしか出来なかった。けれどこれを、人間の正しい営みだなどと、どうしていえるでしょう。私たちは初めから、不具の身だったのです。
 ただ、上手く表情を消すことの出来た貴方も、流石にその背中だけは、素顔のままでした。桜に閉じ込められて、遠ざかって行く貴方。そこにある想いを汲み取った時、私は自分の中から湧き上がる欲望の強さに、一瞬、眩暈を覚えました。どれほど追い駆けようと思った事でしょう。どれほど行かないでくれと懇願したかったでしょう。けれど、その欲望は、ぐっと私の演技に押さえ込まれました。辛うじて残った理性が、私の足も、口も、確《しか》と留めて、決して離そうとはしませんでした。
 あの日から。
 もう三度目の春が巡って来ます。
 貴方は帰って来ません。満州へ行く、と最後に短い手紙を戦地から寄越したきり、貴方はいなくなってしまいました。
 それでもまだ、戦死の報告でもくれば——もうこの世にはいないのだとそう聞けば、諦めることも出来るのかも知れません。けれど、貴方はそれさえも私にくれない。消息を知るひとも現れず、何の連絡も無いままに、戦争は終わり、やがて全てはもう過去のものになろうとし始めました。——ただひとつ、私の貴方への想いだけを取り残して。
 生きているとも、死んでいるとも判別つかぬひとを待ち続けることは、まるで歩いても歩いても先の見えぬ道を歩かされているようです。終わりがなく、そしてもう戻ることも許されない。道標も無く、立ち止まることも出来ず、終《しま》いにはここが何処なのかも分からなくなってしまう、真っ暗闇の道。私はそこでずっと長い間、過ごして来たのです。
 父の知人から、今の仕事を紹介されたのは、そんな折のことでした。
 貴方がいなくなって以来、日々家に籠もって虚ろに過ごす私を、両親も心配したのでしょう。せめて外へ出る機会でもあればと、戦争が終わるなり、ふたりは何かと手を尽くしてくれていた様です。そうして、持って来たのが、小さな印刷会社の事務をやってみないか、という話でした。
 私に否はありませんでした。いくら馬鹿な私でも、それが彼らの愛情であることくらいは、良く分かりましたから。いくつか来ていたらしい見合い話も、ふたりは私の耳に入れる前に、全て断ってくれていたようです。父や母にしてみれば、取り立てて何の取り得も無い私に仕事などさせるよりは、嫁にでもやった方が余程気楽だったはずです。しかし、貴方を無くしたばかりの私にそれを告げるのは、憚られたのでしょう。そしてそこまで分かっていれば、選択の余地など最初からありませんでした。
 初めて会社を出る日、私は躊躇《ためら》いながらも、鏡を開き化粧をしました。貴方がいる間はずっと使っていなかったそれ。けれど、久々に開いてみると、私は自分の胸が、いつもよりほんの少し早く鼓を打っていることに気づきました。
 貴方が何もしなくても綺麗だと誉めてくれた肌に、白粉《おしろい》を均等にはたき、頬紅を差しました。それだけで、鏡の中の私は、いつもとはもう別人でした。化粧をした私は、貴方の前にいた時より大人っぽく、ずっと美しく見えました。そして、その時途端に気が付いたのです。私はまだ若いのだと。私はまだ、たった二十三なのだと。未来はまだ大きく残されていて、ここで蹲《うずくま》っている必要などないのだと。
 背中まであった髪を切ったのは、それから間もなくのことです。
 もうすぐ、靖国のあの大きな鳥居をくぐります。千鳥ヶ淵へ向かう途中、ちょっと寄り道して神社へと足を運んでみたくなったのは、ある思いつきが頭に浮かんでのことでした。鳥居を過ぎれば、社まではあと少し。そしてこの社を見る度に、私はまた貴方の事を考えるのです。
 果たして貴方は、貴方の魂とやらは、ここにいるのでしょうか?
 いるような気がします。いないような気もします。
 いえ、本当は何だって構わないのかも知れません。例えどうあれ、もう私は自分の気持ちを知っています。私の貴方への想い。それは、最初からひとつしかありません。
 貴方のことが、好きです。三年経った今でも。
 私はまだ、貴方以上の存在など信じてはいません。貴方より私を理解してくれる人など、この世界にはいないように思います。貴方より必要とすべき人など、この世界にはいないように思います。
 けれど、貴方を愛しているとは、絶対にいいません。それはとっておきの言葉だから。私はそれを、もっと大事なひとのために残しておきたいのです。これから私が出逢うはずの。私の手を取り、私の傍にずっと居てくれる、そのひとのために使いたいのです。
 貴方は笑うでしょうか。こんな子供じみた私の虚勢を。くだらない、と私の好きなあの声でいってくれるでしょうか。
 私には分かりません。だって、ここには貴方はいないのだから。それだけが現実で、それだけが、揺るぎようの無い真実です。貴方はもういない。そして、ここに居ないのなら、それはもうこの世界に存在しないのと、同じことです。
 社の傍にある小さな箱を前にして、今、私は立っています。ここでも桜は、風が吹く度にあちこちを舞い、私の頬を掠めていきます。けれど、私にはそんな花弁の悪戯など、気にもなりません。私の頭を占めているのは、もっと別のこと。暫く考えあぐねた末、私はおもむろに財布を取り出し、中から小銭を一枚、手にしました。
 そうです。私がここへと寄ったのは、不意におみくじを引いてみよう、という気になったからでした。とはいえ、大吉だの凶だのということに、私は然して何の興味もありません。ただ、私は自分ではない何かに、ひと言、自分が胸の底で認めかねている言葉を告げて欲しかったのです。そして、それにはこれが最適のような気がしました。
 小銭を入れ、箱の中へ手を差し込みます。ぐるぐると掻き回し、一枚選ぶそれ。
 開こうとする手が、震えているのが分かります。けれど私は躊躇はしませんでした。一秒でも早く、答えが欲しかったから。自分の想いに、決着を付けたかったから。
 そして。
 紙を開けるなり、私は大きく眸《め》を見開きました。
 そこには私の望んだ言葉が、望んだ通りに、こう書かれていました。

『待ち人——来ず』


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