「表現すること」への抵抗感を越えていく 【前編】
「表現することへの抵抗感」は日本人共通?
今月10月は「関わり」を意識してすごしてみましょう、と書いた以前の記事。
関わりという言葉が指すものは様々ですが、
「自分の思いや感じていることを表現してみること」を通して、自分以外の存在との関わりを作っていく。
今月はそんなテーマを持ってみてもいいと思います、と書きました。
その中でも特にお伝えしたかったのが、以下のこと。
自分の感じていること、考えていること、その内容がなんであれ、あなたは表現しているでしょうか?
表現されていない時点で、それは他者にとっては「ない」のと同じ。
誰にも届いてはいないんです。
(10/5のnoteより)
表現しないということは、「ない」のと同じ。
この点については、本当にたくさんの方から反響をいただきました。
「言葉にしないと伝わらないよ」と人には言っているのに、自分だって伝えていないことがあると気づいた。
まとまっていないとダメだと感じて、結局いつも表現するのを諦めてしまう。
ずっと意識してきたものではあるけれど、まだまだ表現していないことがたくさんあるなと思う、etc...
「他者に向けて、外の世界に向けて、自分の内面を開くこと、表現することへの抵抗やトラウマ」が、誰の中にも少なからずあります。
表現することに難しさがある、というよりは、「表現してはならない」とすら感じている人も多いかもしれません。
そして、これは個人に限った話ではなく、日本の文化圏で生きる人に共通して言えることなのでは、とわたしは思います。
日本という国で生まれ育ったからこその、「表現」にまつわる抵抗やトラウマ。
そしてそれらと、どのように向き合ったらいいのか。
こうした点について、10年近く日本と海外を行き来してきた経験を交えながら、前編と後編の2つに分けて綴っていこうと思います。
最後までお付き合いいただけたら嬉しいです♪
・ ・ ・
自己主張の国 アメリカ
「表現しない=存在しない」!?
わたしは地元福岡の公立高校を卒業後、カナダの語学学校、そして、アメリカやスウェーデンの高等教育を受けました(交換留学ではなく、入学から卒業までのフル留学です)。
中でも今回ご紹介したいのが、アメリカでの体験。
「表現しなければ、それは存在しないのと同じ」というのは、アメリカでも変わりません。
ただしそこは、良くも悪くも自己主張が欠かせない文化圏、アメリカ。
先述の「思いや考えを表現しないなら、それらは "ない" のと同じ」という次元をはるかに超えて、
表現しなければ、"自分" という存在自体が、"ない" のと同じになる
(つまり、表現しなければ他者から存在を認識すらされない)
という世界でした。
あくまでわたしの主観ですが、自分の考えや思いを表現しない人というのは、「何を考えてるか分からない不思議な人」であり、「ちょっと頭が弱い人」と思われるフシすらあった気がします。
普段のコミュニケーションからしてそうですが、これが大学という環境になるとさらに、【表現しない=良い成績は取れない】となるんです。
それは、発言すること・表現することは「クラスへの貢献」とイコールと見なされるから。
その場に参加し、共に場を作っていくことを求められていて、だからこそ、「表現すること」がガッツリ成績評価の対象になるんですね。
無遅刻無欠席の皆勤賞者だろうと、テストで満点を取ろうと、
「ただそこにいるだけ」では、100点中の50点しか点はもらえない。
それでは単位が取れないわけですから、学生たちも気合を入れてクラスに臨みます。
個人の性格にもよりますが、ディベートの訓練も受けていない、なんならむしろ、黙って先生の話を聞く訓練を重ねてきた日本人にとって、これはなかなかに厳しい世界です。
これはあくまでわたしの経験に基づいた極端な例かもしれませんが、「表現すること」に対する捉え方の違いを、身を以て学んだ数年間でした。
それは当時の(内向型の)わたしにとって、とても痛い経験ではあったのだけど、今振り返ってみると、本当に大切なことを学ばせてもらったなぁと、しみじみ思います。
(チームやペアでのプロジェクト発表も多めでした)
・ ・ ・
「黙ってたらいいのに」と思いながらも
大きくなっていった劣等感
ここで念のため断っておくと、「アメリカがいい、日本がダメ」という話ではありません(その逆でもありません)。
現に、積極的な発言を美徳とし、それを奨励する傾向が、アメリカ社会全体の知的水準や品格を下げている(みんなが言いたい放題になるから笑)、といった批判もあります。
ただ、わたしはアメリカで学生として生活する中で、「表現しなければ伝わらない」ということ以上に、ある大切なことに気づかされたんです。
それは、
コミュニケーションとは「文化」である
ということ。
ここが今回わたしが一番お伝えしたいことなんですが、まずは順を追って説明していきますね。
言葉が悪いんですが、学生の頃わたしは(自分は発言するだけの自信と勇気がないくせに)「この人たちは、おバカなのか?」とよく思っていました。
というのも、アメリカ人の学生たちは小学生の感想かと思ってしまうような、初歩的で何のひねりもないような意見であっても、平気でバンバン発言していたんです。
しかも、あたかもそれが大層な、独創的なアイディアであるかのように、ちょっと誇らしげに、自信満々な様子なのです(そのようにこちらからは見えました)。
そんな彼らを見ていたわたしの脳内は、こんな感じ↓
それ、もう教授が説明したじゃん(時間の無駄〜)
さっきも誰かが同じこと言ってたことじゃん(ちゃんと話聞けよ〜)
それって当たり前の話じゃないの?(もうちょっとマシなこと言えないのか〜)
実際、そんな学生たちの発言に、教授がちょっと辟易しているように見えるときも、あるにはあって。笑
「ほーら、やっぱり。そんなこと発言して、みんなの時間を無駄にしてるよー。教授も困ってるよー。ちょっと黙っときなよー」(完全にLP4の声ですね笑)
という具合に、心の中で教授たちに同情していたものでした。
でも、心の中で何を言ってようと、わたしの中にあったのは圧倒的な「劣等感」でした。
・ ・ ・
アメリカで感じた
「ある共通認識」とは?
理解はできているし、思うことだってある。
だけど、「間違えてはいけない」「まとまってないといけない」「もっといいことを言わないと」と考えてばかりで、いつまでも口を開けない。
そんなわたしの目の前で、他の学生たちは「人がどう思うか」なんて考えたこともないかのように、自分の意見や思いを、てらいなく、まっすぐに表現していた。
そこには、他者の目線を内在化させる(自分の中に取り込む)ことで生まれる、自分を監視し批判するようなジャッジの視点や、
そのジャッジの視点によって引き起こされる、エネルギーのズレや歪みがありませんでした。
「こんなこと言っていいかな」
「みんなにどう思われるかな」
「まとまってないと迷惑かな」
そんな考えなんて、露ほどもないようで。
もちろん性格の違いや程度の違いはあれど(アメリカ人にもシャイな人、内向的な人はいますよ)、彼らは呼吸をするように、自分の中にあるものを表に出しているように見えました。
そしてこれは、発言する人たちだけの話ではありません。
周囲の環境、つまりその場を共にする人たちも、
「なるほど、それは面白いね」
「まぁ、そういう考えもあるかもしれないな」
「いや、そこはもっとこうなんじゃない?」
と、出てきたものを受け止め、引き継ぎ、発展させていく姿勢を持っていました。
つまりそこには、
「それがどんなものであれ、一人ひとりが持っている考え、思い、感情には価値があり、表現されて当然である」という共通認識があった。
そして、その共通認識に基づいて、表現することを奨励し、リスペクトし、共に作っていくコミュニケーションの文化があった。
わたしが「コミュニケーションは文化だ」と言った意味は、ここにあります。
暗黙の了解とも言えないほど当たり前に、「一人ひとりの意見は尊重されるものであって、表現される権利がある」という共通認識。
そんな共通認識が、あのアメリカ国民の自己価値感、自己肯定感を底支えしている、ひとつの要因なのかもしれないな、とここまで書いてみて思います。
そしてあらためて書いておくと、「アメリカってすごいね」という話をしたわけではなく、
「何を共通認識とするか」を明確に設定することで、わたしたちは自分たちが望むコミュニケーションの文化を作っていける
ということが言いたいんです。
じゃあそれはどのようにして可能になるのか?
については、後編に続きます!
なんならここからが本番です。笑
ぜひ次の記事も読んでやってくださいね。
海外に出てみて気づく、コミュニケーションの土台のお話。
どなたかの気づきのヒントになれたら、うれしいです。
それではひとまず、ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
みっこ
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(大学の卒業式にて!)
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