映画『名もなき歌』をめぐる長い長い散歩
『名もなき歌』を観た。南米ペルー出身のメリーナ・レオン監督の初めての長編映画だそうで、素晴らしかった。というわけで、この映画をめぐるながーいお散歩。書き上げてみたら、裏テーマは女性の生き方、とも言えそうなエッセイに。 ※8月10日夜、話の流れを入れ替えて読みやすくしました。前半は映画関連、後半はおまけです。
主演の「無名の新人」が気になって
『名もなき歌』の背景は、乳児売買という組織的犯罪と、強力なホモセクシュアル嫌悪社会。それに翻弄される貧しい先住民女性ヘオルヒナと、ゲイの新聞記者ペドロが主人公だ。(以下ネタバレ)
生んだばかりの赤子をニセ産院にだまし取られたヘオルヒナ。夫と役所にかけあうが相手にされず、無理やり入り込んだ新聞社で窮状を叫び、ペドロの耳目をひく。ペドロは捨て置けずに調査を始めるが、これがどうやら政府高官も絡む大がかりな犯罪で、深入りするとゲイだとバラすぞ、恋人殺すぞと脅迫状が届く。他方ヘオルヒナの夫は、生活費欲しさにテロ組織に入ってしまい…という、とてもやるせない筋立て。
監督の幼少時にあたる80年代ペルーの、汚職とハイパーインフレ、極左ゲリラのテロと警察・軍隊の暴力に社会が揺れるなかで起こった実話がベースだ。その重さと息苦しさを観客の体にしっかり押し込みつつ、画角狭め(スタンダード)のモノクロ映像の淡々とした美しさで、最後まで見せてしまう。2019年から20年にかけて、カンヌほか世界中の映画祭で注目され、たくさんの賞も得ているようだ。
監督のメッセージ入り予告編動画はストーリー重視で組み立ててあるが、実際に映画を観ると、ストーリーよりも個々のシーンの静かなイメージ群が目の奥に刻み込まれる作品だったな、と思う。
さて、本作の成功を支えるひとり、ヘオルヒナ役のパメラ・メンドーサ・アルピ。圧倒的な存在感だが、映画出演は初めてとのこと。公式サイトでは「無名の新人」と書かれている以外、ほぼ情報がない。
パンフレットに掲載されているレオン監督へのインタビューを読むと、ペルー南部・中央アンデスのアヤクーチョから首都リマに出てきた貧しい先住民女性、という設定のヘオルヒナ役に、「中産階級出身で、もはやアンデスの雰囲気もない名の知れたペルーの女優」は使いたくなかったのだという。そこで「アレーナ・イ・エステラス」という劇場に相談したところ、アルピを紹介された、とあった。
なるほど、アルピは華やかな映画業界人ではなく、かと言ってど素人でもなく、少し別の世界からやってきた新たな才能らしい。彼女を推した劇場も気になる。アレーナ・イ・エステラス。スペイン語で「砂とゴザ」、変な名前だ。どこにある劇場なのだろう、首都? 地方都市? いずれにせよ先住民系の人々の文化拠点のような気がするが・・・
と、ここで突然思い出したのが『被抑圧者の演劇』という本。ブラジルの演出家、アウグスト・ボアール(1931-2009)の著作で、70年代ペルーでの一般人向け演劇ワークショップの話がキモなのだが、その話は後半の「おまけ」にとっておく。
主演女優パメラ・メンドーサ・アルピ、自身のルーツ再発見のプロセス
ヘオルヒナを演じたパメラ・メンドーサ・アルピは、2019年の映画初公開時は確かに「無名」だったのだろうが、その後さまざまな記事やインタビューが出たおかげで、どんな人なのかわかる。
ペドロ役のトミー・パラガとともに紹介されている以下の記事によると、アルピ自身もアヤクーチョにルーツを持つ女性だ。大学では人類学を学んだが、在学中に遭遇した暴力的な事件から自身を癒すセラピーとして、演劇にふれたのだという。現在はアクティヴィストとしても活動中。
カンヌでの上映後、2019年に記事が書かれた時点でアルピは30歳、ということは1989年生まれ。ヘオルヒナは、まさに彼女の母親世代にあたる。
興味深かったのは、映画出演が決まった後に、アルピはその準備として自らのルーツを改めて辿り、再発見のプロセスをたどったということ。4歳の時以来訪れていなかった故郷の祭りにリマから足を運び、空っぽのまま残っている祖父の家をまのあたりにする。痛みに満ちた家族の歴史に向き合ったアルピはケチュア語を学び、14歳でリマに出てきた母や、同郷の近隣住民への聞き取りも開始。地域の母親グループの運動や、正義を求めてデモ行進をした女性たちのことも知ったという。それらさまざまな物語が、ヘオルヒナの姿を形作ったのだ。
ケチュア語を学ぶ? 家庭で使っていたのでは? と思われるかも知れないが、幼い頃のアルピは、ケチュア語を話すことを母に禁じられていたという。我が子が社会的な不利や差別を被ることを案じて、母なりに考えた結果だったのだろう。次世代がごく自然に自文化を吸収する、ということがままならなかった現実がそこにある。
アレーナ・イ・エステラス劇場、住民が自力で幸福に生きてゆくための場
次に、アレーナ・イ・エステラス劇場について。これがまた面白い。劇場以前に、劇場のある町が、である。
所在地はリマ南部のビジャ・エルサルバドル。1971年、地方出身者が首都に押し寄せて急激な住宅不足が発生したため、首都南部の広大な砂地に人々が住み着き、自力で作ってしまった町だという。現在に至るまで強力な住民自治で知られ、子育て支援など女性運動が活発であることでも知られているようだ。
「ビジャ・エルサルバドル友の会」というサイトには、町の歴史を写真で詳細に追えるアーカイヴがあり、ど迫力である。
1971年、人々が砂地に家を作る写真がすごいので、「友の会」サイトのスクショを載せておく。
おわかりだろうか、砂地に人々がゴザ的なものを持ち込んでどんどん家に仕立てている。ここで劇場の名がピンとくる。アレーナ・イ・エステラス、「砂とゴザ」! そうか!! この劇場は町のルーツそのものを体現しているのだ。同サイトでは、この後人々が電気や水、銀行や薬局など、生きていくのに必要な設備や仕組みを自力で調達してゆく様子が紹介されている。
さて、劇場の始まりは1992年。きっかけは、とある重大事件だった。地元の母親らによる運動を牽引し、ペルーで最重要とされる女性運動にまで育てたビジャ出身のアクティヴィストが、過激派によってリマで暗殺されたのだという。彼女の名はマリア・エレナ・モヤーノ。以下、再び「友の会」写真アーカイヴのスクショ。ペルーには先住民のほか、黒人奴隷としてアフリカから連行された人々の末裔も多く、モヤーノもそんなひとりであったようだ。この事件の1ヶ月後、ビジャの若者たちが立ち上がって生まれたのが「アレーナ・イ・エステラス」だった。
2017年の発足25周年に合わせて書かれた紹介記事によると、モヤーノの暗殺後、「ほほえむ権利のために」を合言葉にこの文化運動が起こった。アーティスト、教育者、地域の指導者らが集まり、怯えて生きるなんてまっぴらだと、鳴り物を鳴らしながら若者たちはピエロのように町を練り歩いたらしい。以来、演劇、サーカス、音楽などを活動の柱に、現在では劇場や造形アトリエ、キッチン、保育室なども備えた建物を拠点に活発に活動を展開しているようだ。
記事中には「女性のための地域演劇」の写真もあり、出演者たちの堂々たる佇まいが目を引く。以下スクショ。地域密着でこういう活動を続ける劇場で、アルピは演劇を学んだということだ。
劇場の公式サイトはこちら。
せっかくなのでトップページのスクショを。祝祭感満載です。
そしてなんと、リマ在住の日本人ライター、原田けいこさんという方が、2014年にこの劇場の取材記事を『ちゃぐりん』という雑誌に書いていることもわかった。私は現物にあたっていないが、ご興味あればぜひ(プロフィールを拝見すると、リマに移住するまでの原田さんご自身の歩みも相当面白い)。
おまけ:ブラジルの演出家アウグスト・ボアールの演劇ワークショップと、ペルーのつながり
ここからは長いおまけである。ペルーの先住民と演劇、というテーマから連想した、ブラジルのアウグスト・ボアールの『被抑圧者の演劇』のこと。
演劇は恵まれた人だけが立派な劇場で享受するものではない。そして、観客を、受け身でただ観るだけの存在に押し込めてはダメだ。抑圧的な社会状況を生きていても、いつかそれを打開していく未来の行動のためのリハーサルの場として、演劇は人々によって使い倒されるべきものなのだ。おおよそこのような信念のもと、ボアールは数々のユニークな演劇ワークショップの手法を編み出したことで知られる。
例えば、参加者の生活の一場面を、群像彫刻をつくるようにストップモーションとして俳優に表現してもらい、次にその状況を変えるには俳優をどう再配置したらいいかを考えさせる「彫刻演劇」。生活を寸劇に仕立てて俳優に演じさせ、それを観ている参加者が芝居の展開に疑問を持ったらその時点でストップをかけて介入、自ら俳優になりかわって別の筋立てに導くという「討論演劇」など、いろんな方法がある。現在の日本でも、演劇は未来の人生のリハーサル、というボアールのスピリットを受け継ぐように活動している人は少なくないと思う。
その彼の初の著作、『被抑圧者の演劇』の原書初版は1974年。里見実らによる和訳もあるのだが(晶文社、1984年)、いま手元にない。残念ながら絶版で、古書もなかなかの高値。
他方、後に出た別の著書も含め、西・伊・独・英訳などはAmazonで手に入る。英訳はKindleでも読めるものがある。ボアールは今もそれだけ需要があるのだろう。日本語で読める略歴やボアール本人の言葉としては、以下が参考になる↓
私自身は南米のあちこちを旅したり、長年ダンスや音楽にハマったこともあって、ラテンアメリカの文化については多少知っているほうだと思う。が、ペルーなどアンデス諸国についてはかなり手薄だ。「アレーナ・イ・エステラス劇場」とこのボアールは何か関わりがあったりするだろうか、と少しググってみたが、直接のつながりはなさそうだった。でもせっかくなので復習もかねて、うろ覚えのボアール経由でペルーに目を向けてみようかと、『被抑圧者の演劇』英語版を購入。
裏表紙には、ワークショップ中と思しきボアール本人の写真がある。場所はわからないが、ここでの参加者は白人中心のようだ。
ちなみにボアールは、ブラジル国内ではアレーナ劇場というサンパウロの劇場を拠点に活動していたが、軍がクーデタで政権を掌握したのちは逮捕・拷問され、1971年に国外追放となった。その3年後、アルゼンチンにてスペイン語で書いて出したのがこの『非抑圧者の演劇』。だが同国もほどなく軍政下におかれ、本も発禁となるが、仏訳・英訳版によって世界的に広まったようだ(ボアールはフランスでも長く活動した)。故国に戻れたのは民政移管後の1986年だった。
さて目次を見ると、最初の3章はいわば理論篇で、4章が「被抑圧者の詩学」と名づけられた実践報告のようだ。さっそく4章のページを開く。あったあった! 「ペルーでの民衆演劇の試み」。
冒頭の解説。ボアールのペルーでの「実験」は、当時の革命政権による4年計画の識字教育プロジェクトの一環として、リマ(首都)とチクラーヨ(主要都市のひとつ)で1973年8月に実施されたものだった、とある。
は? 革命政権? 識字教育?? それと演劇??? と思う方も多いだろうから、ここでごくごく簡単な補足を。
ブラジルの教育者・哲学者、パウロ・フレイレの影響力
1970年代のペルーでは、「革命」を掲げる軍事政権によって社会主義路線の大胆な農地改革、そして教育改革が推進されていた。おりしも、ラテンアメリカをはじめ世界各国の教育界で、パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』が大きな話題になっていた頃である。フレイレはブラジルの教育者・哲学者で、文字の読み書きができず社会的・経済的に不利を被っている成人(多くの場合先住民系の農民)への、斬新な識字教育を提唱した人だ(が、ボアール同様、軍政下で亡命を余儀なくされていた)。
フレイレは、人々の日常生活自体を題材にした。生活場面が描写された絵や写真のあるカードをもとに、グループで話してもらう。教師は彼らにとって重要そうなキーワードを見極め、それらの語を中心に、彼らが自分の言葉で状況を分析し、それを文字や文章として書き、どうすれば状況を変えられるかと考えられるように、サポートする。
フレイレの方法は、人々が目の前の世界のありようを自力で読み解いたり、変えていく筋道だって自分たちで考えられるのだと自尊心をもち、行動できるような言葉を生み出すことに向けられていた。教師が文字や単語や文法を人々の頭に詰め込み、結果彼らを支配する、という構図とは訣別すべきなのだという強い意志がベースにある。簡単にできることではない。でも教育学を学ぶ人なら、このフレイレの名は今も必ず耳にするだろう。
「ペルーでの民衆演劇の試み」の冒頭にも、「ペルー政府の識字教育プログラムはもちろんフレイレに影響されたものである」とある。そしてもちろん、タイトルとしても演劇の考え方としても、ボアールの著書がフレイレの著書に倣っていることは明らかだろう。ちなみにボアールの著書邦訳の表紙には、これがフレイレの著書の「姉妹篇」だと銘打ってある。以下は古書サイトからのスクショ。
ボアールが記録した1973年ペルーでの演劇プログラムと、女性たち
さて、ペルーの公用語はスペイン語である。が、多様な先住民が生きる国ゆえ、二大先住民系言語としてのケチュアとアイマラを筆頭に、少数言語が数多くある。ボアールによると、1973年時点では人口の4割がスペイン語を第一言語とせず、人口の少ない北部地域だけでも、なんと45の異なる言語が話されていたそうだ。このような状況での4割の「非識字」の人を、どう定義するか。
この人々は表現自体ができないのではない、スペイン語での表現ができないだけだ。書き言葉をもたない言語もたくさんある。だがなんであれ、新しい言語を身につけることは、自分をとりまく世界を新しく見る見方を獲得して、それを他の人に伝えられるようになることだ。
このように考えた政府の識字プロジェクトチーム(まさにフレイレ流)は、2つの方針を立てたという。(1)人々の第一言語とスペイン語の両方のリテラシーを教える(前者を捨てさせない)。(2)可能な限りたくさんの「言語」を教える。特に芸術系のもの。演劇、写真、人形劇、映画、ジャーナリズムなどなど。
ボアールが招聘されたのは(2)の方針のためだった。そしてさきほど書いた「討論演劇」は、どうやらこのプロジェクトのなかで本格的に試みられたものだったようだ。ちなみに他の文献をあたったところ、先に触れた「砂とゴザ」の町ビジャ・エルサルバドルは、この識字プロジェクトの対象地域のひとつだったらしい。ボアールもあの砂地を歩いていたのかも知れない。
さて、実験的なプログラムの細部を描写するボアールの筆致は鮮やかで、人々の身体がときほぐされ、ユーモアと笑いに満ちた現場が生まれる様子がたびたび出てくる。だが、個人的に最も印象に残ったのは、「彫刻演劇」(文中では「イメージ演劇」)で女性たちが見せるリアクションのくだりだ。
ある地方出身女性(先住民だろう)が、為政者の暴力に苦しむ自分の村の光景を構成した。男性の登場人物は銃を向けられて後ろ手に縛られ、あるいは拷問を受け、女性の登場人物はひざまずいて祈っている。ではこの状況を変えるには人物たちをどう動かすかと問われたとき、地方の女性たちは、ひざまずく女たちのポーズを変えることはまずなかった。立たせたり、戦う側に加えるのは、決まって首都リマ出身の女性ばかりだったという。
女性が自分の未来の可能性をどう見ているか。その違いがそんなかたちで露わになると知って、読みながら気持ちがヒリヒリした。
ここでもう一度、『名もなき歌』に戻ろう。ボアールを招聘した政府による「革命」が失速・終焉し、80年に民政移管となった後のペルーがこの映画の舞台である。上の画像は映画パンフレットより。アルピ演じるヘオルヒナは地方のアヤクーチョ出身だが、スペイン語の読み書きはできる設定だ。それが不正を訴えに新聞社に駆け込むという彼女の行動のベースでもあるだろう。とはいえ、リマ育ちの女性ではない。
ここで妄想。もし、ヘオルヒナがこの時ボアールのプログラムに参加して、「彫刻演劇」をやったとしたら?
ひざまずく女性たちを手つかずで済ませることはなさそうだ。しかしどう動かしただろうか? 立ち上がって声を上げ、ペドロという協力者を得たヘオルヒナ、でも夫はテロ組織に入ってしまった。赤ん坊はまだ見つからない。そのような状況で未来に向けてできることとは?
映画のなかで彼女自身が最後に取った行動。それはリマ郊外の高台から海に向かって、母語のケチュア語で子守唄を歌うことだった。
というわけで、妄想込みのおまけ終了。ここまでお付き合いくださった方、ありがとう。よかったら映画もぜひ見てくださいね。
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