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No.165 大学を目指す歩み(7)ライバル藤ノ木くんとの出会い・その3「何処に?」

No.165 大学を目指す歩み(7)ライバル藤ノ木くんとの出会い・その3「何処に?」

No.151の続きです)

入学案内書に書かれていた「比較文化学部合格にはTOEFLテストスコア550点が目安」との曖昧な表現が気になり、上智大学事務局に確認に行ったが、確答が得られなかった。楽観的な僕は「TOEFL550点に満たなくても合格はあると言うことか」との思いを持って、単純にも嬉しくなって帰宅の途についた。

帰宅後、連れ合いの由理くんに「550点取れなくても合格はあるね」と事務局での話を面白おかしくすると「しんくん、それって550点とっても不合格もあるってこととちゃうの?」との反応だった。由理くんも僕と同じように物事を暗くは捉えないが、冷静に考えればやはり「550点が目安」は恣意的で厄介な文言と言えた。由理くんが続けた「しゃ〜ないね、向こうがそう言ってるんやから。600点くらい目指したらええやん」

選考書類提出まで半年、受験できるTOEFLテストの回数は全部で6回、初回は530点であと5回、11月のテストが最終回となる。最初のTOEFLスコア530点から600点まで伸ばせるのかは、全くの闇の中だった。この当時のTOEFLテストは今と違い、だいたいひと月に一度指定会場に出向いて、リスニング、グラマー、リーディングの3つのパートのテストを受けるシステムだった。

3つのパートのいずれも得意と言い切れるものはなく、全体の実力をあげるしかなかったが、複数回受験できるのは有り難かったし、過去問を見るとTOEFL特有の設問形式だった。グラマーパートを見ると「四択穴埋め問題」と「文章の間違い探し問題」の二形式だけだ。学習の道筋を掴むのは容易と言って良かった。現在僕が経営している学習塾での受験指導は、過去問対策のみと言えるが、この時の経験に基づいた確信の上にある。

トフルゼミナール水曜日夜のクラスで出会い、僕の提案で「ライバル」関係になった藤ノ木くんは、リスニングパートの強化を中心にTOEFL600点突破を目指して、学業に励んでいた。出会ってお互いの自己紹介の時、藤ノ木くんがM大学を卒業してアメリカの大学を目指していると言うことは分かった。その後、同方向の帰り道で話したりして親しくなっていく中で、藤ノ木くんからアメリカの大学を目指す動機なども聞いた。

藤ノ木くんがM大学を卒業した時は、バブル経済真っ盛りで、有名大学卒業生は一人でいくつもの「就職内定」を得た「売り手市場」であった。多くの同級生たちが好条件で一流企業に内定をもらう中、藤ノ木くんは一切の就職活動をしなかったばかりか、M大学政治経済学部の退学まで考えたらしい。流石にこれは、埼玉県某所で中華料理店をなさっていた両親の言葉「卒業はしておけ」に従ったと言うことだった。

5月、2回目のテストが終了した。当時、自分のスコアが郵送で届くまでにひと月ほどかかるのがもどかしかった。藤ノ木くんに電話をして、テストの感触を聞くと、前よりできたと、僕と同じような事を言って、二人お互いに、ささやかな賭けの「ラーメン奢り」は「オレがもらったね」「すみません、僕がいただきます」と笑い合った。結果は藤ノ木くんがわずか3点上で、僕がラーメンを御馳走することになったが、二人とも前の点数とほとんど同じであった。

6月3回目も、2回目の再現となった。二人とも「前回より自信がある」から「ほぼ同じ点数、点数の上積みなし」なぜだろうとしらけてしまった。藤ノ木くんも「何で、でしょうねえ。伸びませんねえ」と、いささか自信を無くしかけてきたようにも見えたが、お互いに諦めるわけにはいかなかった。

7月4回目のテストで二人とも570点を越え、9月5回目のスコアはまたも同じように伸びずだった。僕に取っては、選考書類提出期限に間に合う最後の11月のテストが残されるだけだった。すでに「合格目安の550点」は越えていたので、気軽な感じでテストに臨み、結果は590点、600点には届かなかった。

藤ノ木くんに連絡をすると、やはり590点台で600点には届いていなかった。二人の点数の伸び方は、奇妙なくらいに一致していた。今になって思うのだが、学業成績の伸びは「一次関数的直線」にはならないのだろう。英語で言うところの「Learning plateau 」日本語にすると「学びの台地」「学業高原」「プラトー現象」と呼ばれるような状況が、藤ノ木くんと僕にあったのだろう。

学業の伸びが成績に現れない低迷期が続き、次に成績に現れてくる。また成績の伸びの低迷期があり、次に伸びる時期が訪れる。横に時間軸、縦に成績点数をとるグラフにすると、この低迷期は横に伸びる直線となり、その形からここを「台地」と言う訳だ。

点数が上になればなるほど、点数の伸びは小さくなり「台地」の期間が長くなる傾向があるのだが、これは学業を継続して起こる現象で、継続を断つとすぐに点数は落ちていく。学業に限った話ではなく、体力やスポーツにおける技術の維持や、楽器の習得などにも当てはまることであろう。

ともかくは、上智大学比較文化学部入学に必要なTOEFLのスコアはクリアできたようだ。残されたのはSATのスコア獲得と、英語での志望理由エッセイだった。加えて、高校卒業証明書が必要だったが、20年以上も前のものを磐城高校に頼めるものなのかどうかと可笑しくもなった記憶がある。38歳を迎える年齢が入学に支障はないと確認はしているものの「TOEFL550点目安」と同様、大学側の判断がどうなるかは未知数だった。

若きライバル藤ノ木くんに、何とか目標の点数近くは取れたことを話すと、我がことのように喜んでくれた。一方で、アメリカの大学入学には600点以上取っていることが望ましいとのことで、藤ノ木くんは「GRE」の対策学習と共にもう少しTOEFLの勉強も続けると言う。

「コンピューターの、勉強を、したいんです。研究が、進んでいる、アメリカで。日本の、どこかの企業に、就職するのは、何か、違うなって。ずっと、思っています」

我が家の夕食に招待した時に、スパゲティを食べながら、連れ合いの由理くんと僕の前で、訥々と言葉を紡いでいった藤ノ木くんが忘れられない。藤ノ木くんが帰った後に由理くんが言った言葉も忘れることができない。

上智大学比較文化学部入学まで、他にもいろいろな事があったが、由理くんが言った言葉と共に、稿を改める。

さて、ここでは若きライバル、好青年藤ノ木くんのその後だ。僕はトフルゼミナールも卒業して、大学入学に何かと忙しくしていて、直接会う機会も減っているなか、藤ノ木くんから連絡が入った。

「信也さん、僕、アメリカに、行きます。詳しい話は、またします。何とか、なると思います。オヤジとおふくろの仲が、まずいんです。また、連絡、します」

年明けに藤ノ木くんの年賀状がアメリカから届いた。1993年の事だ。アメリカの大学で頑張っていますとあり、返事も出し翌年の年賀状も来たが、次の年には来ず連絡が途絶えた。実家のお店の名前や住所を聞いておくのだったと悔やんだが後の祭りだった。

人は残酷なものだ。時の経過と共に、藤ノ木くんの顔まであやふやになっていった。僕は2009年に連れ合いの由理くんを亡くした。年齢を重ね過去を振り返る中で、藤ノ木くんもまた、ふっと現れては消えていく友人の一人だった。あの独特の木訥な話し方が懐かしかった。

どうしているんだろう?

かつてのライバル、藤ノ木ヒロシくん、君は「何処に?」

・・・続く

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