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No.070 カルロス・クライバー / 僕に届いた音楽の力

No.070 カルロス・クライバー・僕に届いた音楽の力

(以前書いたNo.009の記事から一部抜粋して大幅に書き直したものです)

1986年4月、嬉しい電話が入った。「小野さん、カルロス・クライバーのコンサートのチケットが、二日続けて2枚取れます。小野さんと、由理さんもどうですか?ご存知のように、ドタキャンの可能性はありますが」

永澤くんからだった。彼ほどクラシックに詳しくもないし、聴き込んではいないが、クライバーの名前を聞いて即答した。「もちろん行くよ」と。

カルロス・クライバー、近年最もカリスマ性に富んだ天才指揮者として知られる。完璧主義者ゆえか、正式にリリースしたCDは極端に少ないが、いずれも圧倒的に評価が高い。演奏会直前のキャンセルも珍しくないが、チケットの入手は困難なことでも知られていた。

2004年に亡くなるまでに、五回来日していて、四回は歌劇場の引越し公演のオペラの指揮で、オーケストラを指揮したのは、1986年の一度のみだった。キャンセルもなく、その貴重な公演を素晴らしい席で二度も聴けた。チケットを譲ってくれた永澤くんに感謝である。そして、その公演が僕の人生を変える大きなきっかけの一つとなるのだ。

小学校の音楽の時間で聞いた「ハチャトゥリアン・剣の舞」に吃驚(びっくり)した。クラシックって、こんなのあるんだ。クラシックという分野の音楽が、心に引っ掛かった。当時、心に刺さったのは、夢中になって見ていたイタリヤ版西部劇サウンドトラック「決定版!マカロニ・ウェスタン」だったが。

クラシックと言えばこれだろう、ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」カラヤン指揮のLPレコードを買ったのは、高校生の時だ。教養なるものを身につけるのだと思う年頃の行動の一つだったか。なるほど、楽聖ベートーヴェンの作品とはこういうものか、皇帝カラヤンの指揮とは、世間が言うように良いのであろう。人には言わず、心の片隅にしまっておいた。この時のお気に入りは「サイモン&ガーファンクル・ベスト」だった。

「指揮者によって全然違う音楽になるよ」。半信半疑で聞いていた、そんなものかな。クラシック音楽の分野では、室内楽は好きになっていた。

新宿紀伊国屋書店の棚にあった「レコード芸術別冊・名曲名盤500ベスト・レコードはこれだ!!」が目に入った。クラシック音楽の道しるべのの一つになる本との出会いは、大学浪人中19歳の時だ。評論家13人が、LPレコードを演奏家、指揮者別に点数化している。ベートーヴェン交響曲第五番「運命」の箇所を見る。カルロス・クライバーを初めて知る。一位21点。二位フルトヴェングラー9点。カラヤンは1点であった。帰りの紙袋の中に、一冊の本と一枚のレコードが入っていた。

帰宅して、カルロス・クライバー指揮「運命」のLPレコードに、プレーヤーの針を落とした。かの有名な冒頭から2分もたたないうちに、心を掴まれた。なんじゃこれはー!ぶったまげた!音が突っ走っている!「運命」ってこんなに凄い音楽だったんだ。

聞き終えてすぐに、カラヤン指揮の「運命」を、数年振りに聞いてみる。美しい「運命」であった。クライバーの疾走感が、ずっと好きだ。後にフルトヴェングラー指揮の「運命」も聴き、かの有名な「運命」の冒頭「ジャジャジャジャーン」って、いろいろあるんだなと思い知らされる。

僕にとって、カルロス・クライバーはクラシック音楽への扉を開けてくれた指揮者だった。その「生ける伝説」の姿と音楽を、この目で確かめ、耳で味わう日がもうすぐ来るのだ。キャンセルだけが心配だったが。

1986年5月18日、昭和女子大学人見記念講堂。永澤くん夫妻、僕の連れ合い由理くんと僕、一階ど真ん中素晴らしい席に並ぶ。オーケストラが揃う。客席の熱気が高まるのを感じる。隣の由理くんが、椅子に深く座り直す。僕も釣られて体を動かす。最初の曲は「ウェーバー魔弾の射手序曲」。

クライバーが左手側から早めの足取りで中央に向かう。拍手が会場内に響く。クラシックの演奏会には珍しく、声もかかる。タキシード姿のクライバーが客席に向かい、軽く微笑んだ。聴衆の興奮の拍手を無視するように、即座に体を反転させ、オーケストラに向き合う。聴衆が慌てて拍手を止める。さっとタクトが振られる。瞬時の事であった。会場にすーっと音が行き渡る。波が僕にも静かに到着する。右の頬に一筋の涙が流れた。今も不思議だ、降りてきた言の葉である。「何をやっているんだオレは」。

酒屋商売は順調であったし、嫌いでもなかった。映画・音楽・マジック・美術・グルメ・・・楽しく日々を送ってもいた。クライバーの音楽に生で触れ、何故か心の底から湧き上がる「何か」があった。人生をもっと一生懸命に生きてみても悪くないか、昔挫折した大学入学を目指すか。

クライバーの公演後、英語の勉強に時間を費やし他の勉強も始める。上智大学比較文化学部合格を目指す。

入学は1992年、38歳になっていた。

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