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No.146 M教授の思い出 / nowadaysの話

No.146 M教授の思い出 / nowadaysの話

酒屋商売をしながら、英語の学習を続けていたことはnoteの記事「英語・挫折の歴史」(No.016 No.023 No.029 No.031 No.036 No.037 No.042 No.046 No.050 No.055 )をはじめ、色々と触れてきた。20歳代前半当初は、英会話中心の学習を進めていたが、文法や語法の習得も必要に感じるようになり、受験参考書や辞書、ハウツー本などを乱読していた。

幼なじみの友人ワタルくんとの世間話の中に、彼の叔母さんのご主人Mさんの話があり、興味をそそられた。大学で教鞭を執り、中国語を専門としているが、英語ばかりでなく、ラテン語をはじめ様々な言語に堪能とのことだった。

英語を学習していて、貪欲に知識を獲得していきたい時期真っ盛りで、好奇心旺盛の上に、図々しさも持ち合わせる僕は、当然のごとくワタルくんの手を煩わして、叔母さんとM教授のご自宅に押しかける機会を得る。M教授のお住まいの豪徳寺に向かう新宿からの小田急線内も、下車したときのホームの暑さも記憶が鮮明だ。30数年前の夏のある一日の話である。

にこやかに僕を出迎えてくださったワタルくんの叔母さんとも初めてお会いした。玄関を入ってすぐ右手の書斎に通して頂くと、翌年に大学教授の職の定年を迎えられるM教授が、いつもそうなさっているであろう匂いを漂わせて、ソファに深く座り本を手にしていらした。僕を見とめると、手にしていた本を傍に置いて、腰を下ろすようにと手招きしてくれた。

挨拶を交わした後の、M教授の最初の言葉が忘れられない。
「君は、学問としての英語に興味があるそうだね」

どこで間違ったのだろう。「伝言ゲーム」のように、僕からワタルくん、ワタルくんから叔母さん、叔母さんからM教授と伝わるうちに「語学のお話を気軽にお聞きしたい」が「学問としての英語に興味がある」に化けたのだろうか。

英語を「学問」と思ったことはなかった。強いられてもいなかったので「勉強」も違うような気がしていた。「学習」が近いような気はするが、マジックや映画鑑賞などと同じように「趣味」と言うのがもっと近いように感じていた僕に向けられた「学問としての英語に興味がある」との文言は若干居心地が悪かった。

「いえ、英語の学習を怠ってきて、英語を話せるようになればいいなと思って会話中心に学習を続けています」との僕の答えは、さぞや骨のある「語学の研究に興味ある若者」を期待していたかもしれないM教授を落胆させたかもしれないが、事実を伝えるしかなかったし、ある意味僕は誠実だった。

M教授も、自分の奥さんの甥の得体の知れない友人に誠実に対応して、いろいろな話をして頂いたのだが、二時間近く後に家をお邪魔する時にはほとんど何を話して頂いたのか覚えていない始末だった。今となっては勿体ない話であるが、僕はこの時はまだ卵の殻の中にいたばかりで「啐啄(そったく)」の時ではなかったと言えるかもしれない。

一つだけ例外的に覚えている話がある。M教授が僕に尋ねた。
「君は、nowadaysという語は知っているかな」
「『最近』とか『近頃』と訳されますよね」
「そうだね。でもおかしいと思わないかね。『now』に『a』そして『a』なのに『days』と『-s』を伴っている」
「はあ、そうですね」

そんな事思ってもみたこともないし、ましておかしいと考えたことなどなかった。気のないような返事をした僕はここでも誠実と言えば誠実だった。

「君、この文はどう思うかね」
M教授はメモ用紙に英文を書いて僕の方に差し出した。そこには
「 I go to church a Sundays.」と書かれていた。
「『a』に『名詞Sunday』に『~s』だ。おかしいと思うかね?」

「普通は I go to church on Sundays.じゃないんですか?」
「現代英語ではそうだろうね。この英文 I go to church a Sundays. を同僚のイギリス人に見せると『こんな言い方は無い。おかしい』と言うので、14世紀の文献を見せて「ほら、ここにあるじゃないか』と指摘すると『本当だ。知らなかった』と言うんだ。昔は『a』を、現在の『on』と同じように使っていたんだ。『~s』も副詞語尾とかから発展して複数を表すようになったと考えるのが適切なのかな。『中英語』と呼ばれる、まあ英語の混沌の時代の話だね。『now-a-days』もそれと同様の語源を持っているんだ」

俗に言えば「トリビア知識」と言える。ひたすらに英語の実用性を求めていたこの時期の僕には、M教授の「学問としての英語」の話は役には立たなかったと言ってよかった。もし、M教授の話に感激していたら「言語学」の世界に本格的に足を踏み入れたかもしれないが、そうはならなかったのは僕の資質と嗜好の問題に過ぎないであろう。

M教授の「学問への探究心」は、僕の心の片隅にトゲを持ってしっかりと引っ掛かり、時折、軽い痛みを持って気持ちよく僕を刺激するのだ。おそらくは僕が向かわないであろう世界もまた素晴らしいものであり、そこに惹かれる人に爽やかさを感じて、その探究心に少しばかり嫉妬もして応援したくなるのだ。

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