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No.168 若き友よ!(8)ライバル藤ノ木くん「再会」その3

No.168 若き友よ!(8)ライバル藤ノ木くん「再会」その3

No.167 の続きです)

かつての「若きライバル・藤ノ木くん」は、現在Southern Illinois University / Computer Science  Faculty (南イリノイ大学・コンピューター学部)で、Professor (教授)の地位を得て、100人を超える学生の前で「中核コース」の教鞭をとったり、大学院生には更に高レベルの授業をおこなったりしている。研究課題としては「Computer Security」を進めていて、名古屋の某大学とのパイプのみならず、中国やヨーロッパの大学との交流も深めているそうだ。大学の自治活動も、Professorの大事な仕事の一つで、忙しく充実した日々を送っている様子である。

以前の記事のいくつかで触れているが、藤ノ木くんと僕が出会ったのは、高田馬場にある予備校「トフルゼミナール」であり、1991年のことであった。藤ノ木くんは20歳台前半、M大学卒業後アメリカの大学を目指し、僕は30歳台後半、上智大学比較文化学部を目標に、僕の提案である「ライバル関係」の名のもと、それぞれの「新しい大地」を模索していた。

1992年に上智大学比較文化学部に入学後、徐々に疎遠になってしまった藤ノ木くんとの仲であったが、2010年に藤ノ木くんからの便りをきっかけに、年に一、二度の連絡は取るようになり、お互いの無事を喜んでいた。2010年に僕の自宅に来た時は、associate prefessor(準教授)の地位に就き、日本の終身雇用に近いtenure(テニュア)を獲得したまでは聞いたが、友人にありがちな「詳しい仕事の話は聞かずじまい」になっていた。

noteの記事を書くにあたって、先日ZOOMでアメリカにいる藤ノ木くんと、時の経過を超え、空間を共にして話をした。東京は夜の10時、アメリカイリノイ州は朝の7時、藤ノ木くんの大学での仕事開始前の貴重な1時間30分は、僕の「藤ノ木くん、変わっていないなあ〜、偉い大学教授に見えないところがいいなあ」から始まり、昔と変わらぬ藤ノ木くんの訥々とした「いえいえ、家内に、白いものが、混じってきた、髪を、からかわれて、いますよ」との返答へと続いた。

以前の話の確認の他に、今回の繋がりで初めて知ることも多く、飄々と道を切り拓いていく生き様が、アメリカでの生活から得た人生観が、大変に興味深く刺激を受けた。僕の大事な「若き友」「かつてのライバル」藤ノ木浩くんの人生の一端で、これまで触れていなかったことを書き綴ってみる。

1990年時の日本はバブル景気真っ最中、高学歴大学卒業生は複数の一流企業からの内定をもらう中、藤ノ木くんは違和感を感じて就職活動もしなかった。その辺りの話はnote記事No.167などに書いたので、興味のある方はそちらにも目を通していただきたい。

アメリカでの最初の大学、Illinois Institute of Technology イリノイ工科大学で、藤ノ木くんはアメリカでの学生生活をスタートさせた。少しばかりの奨学金と、両親からの援助金「ん百万円」と、学内でのささやかなバイト代金で凌いだ2年間だったと、懐かしそうに若き日を振り返ってくれた。次に示す僕の戯言を戒めるように、両親からの援助金は後に完済したと言うから立派なものである。

現在、学習塾を経営している僕が、保護者と中高生を前に、面談の時に偉そうにたびたびする戯言がこれである。「残念ながら、学生が大きく稼げる術(すべ)はない。成績を上げるために、塾に通うなど他人に頼リたければ、親に『しっかり勉強するから費用は貸してくれ』と言ってだね、借用書もしっかり書いて借りたらいいよ」こんな僕の言葉に苦笑する親御さんを目の前にして、続ける。「もっとワル知恵を授けよう。そしてね、将来はそのお金を踏み倒したっていいよ。まあ、肩たたきでもして、親孝行はして欲しいな」

藤ノ木くんは真面目に勉学に励み、卒業間際にイリノイ州の中心都市シカゴで偶然知り合った韓国人の実業家に誘われ、韓国ソウルで半年ほどコンピュータープログラミングの仕事に励んだそうである。この仕事は給料も良かったばかりでなく、レジュメ(履歴書・職務経歴書)を重要視するアメリカの大学院進学などに大いに役立ったそうである。

日本での「博士号」にあたるPh.D(Doctor of Philosophy)をアメリカで取得するのは容易ではない。難関の筆記試験や口頭試験に加え、学位論文なども必要である。次なる大学院を目指し、藤ノ木くんはここでも、己の道を切り拓くべくアメリカ南部のフロリダ州タンパ(Tampa)にあるThe University of South Frorida サウスフロリダ大学に手紙を送った。それまでの経歴が認められ奨学金も得て、それからの5年間31歳になるまでをこの地で過ごし、大きな経歴と、そして生涯の伴侶も得ることとなる。

2001年、藤ノ木くん31歳の時にイリノイ州Southern Illinois University / Computer Science  Faculty 南イリノイ大学・コンピューター学部にAssistant Professor(助教授)として勤務を始め、その後厳しい審査を経てAssociate Professor(准教授)に昇格、数々の狭き門を突破して日本の終身雇用に近いtenure(テニュア)を獲得した。現在は、アメリカ全土を見渡しても、日本人としては希少な存在のProfessorアメリカの大学教授として任務を全うしている。

「藤ノ木くん、自分で道を切り拓いていった人生、いや〜大したものだよ。日本での生活より、アメリカでの方が長くなったけど『藤ノ木教授』の感じるところを聞かせて欲しいな」
「いやー、日本を、心配、しています」
「興味深いね。たくさん聞かせてよ。心配って具体的には?」

そして、藤ノ木くんは熱く、訥々と語ってくれた。僕を刺激した言葉を、考えを、思いつくままに書き連ねてみよう。

「1980年代日本は『いいものを作って、世界中に売っていた』それが今は元気がないです。その一因として日本の政治家の情けなさを日々感じています。日本の政治家は『人がいい人』が好まれますが、世界的な視点からも、日本の将来のためにも『対立を避けない人物』が必要です」

「具体例をあげてみます。現在『ネット検索』の世界はGoogleグーグルの一人勝ちの状況ですが、80年代日本にもInfoseekインフォシークなどの『検索エンジン』の技術が出てきました。この技術の発展を妨げた原因の一つは某政治家を中心に動いた『プライバシーの侵害の恐れ』の名目での動きでした。インフォシークがGoogleと同じような地位を築けたかどうかは分かりませんが、将来に目を向けるよりも現状を維持することに優先順位を置く日本の政治家の姿勢の一つだと思います」

「アメリカに暮らしていると、つくづくアメリカは先進国と発展途上国の入り混じった社会で、酷いところも多いのですが、まだまだ発展しそうな魅力を感じます。日本の若い人たちには、もっともっと『外に』目を向けて欲しいです。多くの日本人がアメリカの語学学校に来ますが『アメリカのお客さん』です。僕はアメリカで『働く』ことを勧めます。アメリカ人は『嘘は言わない』ですし『本当のことも言わない』です。ただ、お金が絡むと『嘘はつけない』んです。そんな社会なんです」

他に「量と質」の話が興味深かったのだが、ZOOMでの会話のすぐ後に、藤ノ木くんからメールが入った。「誤解を招く言い方で反省しています」と始まる文に、彼の誠実さが感じられた。「量と質」の箇所の全文を下に記す。


「多くの日本の人が『量』と『質』を異なる概念として捉え(言葉の定義ではもちろん異なる概念ですが)、両者を関係のないもの、あるいは正反対の概念として認識しているような印象を持っています。日本の人たちは誠実で学校でそう教わったとおり実践されており、その意味では日本の人たちの誠実さは世界に誇って良い美徳だと思っていますが、僕自身現実の世界はその通りには動いていないことを何度も実感させられました。

安価で、比較的低品質な工業製品も、数をこなして、世界標準の地位を獲得さえしてしまえば長期的には以前高品質で知られていた製品でさえ徐々に市場から締め出されてしまいます(自動車などの生命に直結する分野を除いて)。そうなった時点で、いずれ日本のマーケットが海外からの製品供給に依存するようになってしまいます。日本はかつての「高品質ブランド」にあぐらをかいてしまいました。世界標準の地位さえ一度獲得してしまえばそのあとの品質の改善は時間が見方になってくれます。量が時間をかけて質に転化します。その意味において、日本の技術者と経営者は量と質を切り離して考えるべきではなかったとおもいます。韓国を舐めた結果の鉄鋼業、白物家電の中国、検索エンジンの米国。80年代後半以後、日本は同じ過ちを何度もくりかえしました。

『量』と『質』を同じ概念と言い切ったのは言いすぎだったかもしれません。でも少なくとも私たちが生きるこの現実世界においては、連続的なつながりを持つ概念であると僕は思っています」


「藤ノ木くん、今日は長い時間のお付き合いホントにありがとうね。最後の質問。15歳年上のオレと最初にあった時、その後ウチに来た時でもいいや、どんな印象を持ったかなあ?率直な言葉が聞きたいな。『変な人と思った』でも、なんでもいいよ」

「柔軟、だなって、思い、ました。若いな、僕の方が、老けてるんじゃないかって。物凄く、刺激も、受けました。そうだ、由理さんに、作ってもらった、スパゲティ、美味しかったの、覚えて、います」

「最後は『食い物』かあ〜、強いなあ。由理くんの遺影に報告しておくよ」

ZOOMでの映像が切れる前、これから授業を控える「Professor Hiroshi Fujinoki」の笑顔は、出会った時のあの爽やかな「藤ノ木くん」そのままだった。

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