”自分のキャラ”って、なんだよ
先日参加したワタリーショップでハットゲームをやった時の気づきが自分の中では衝撃で、記憶に刻み込んでおきたいのでここに綴ることにした。
1戦目、対戦相手にこう言われた。
「みきのん強そうだなぁ〜」
激弱と自認している私は「いやぁそんなことない、まじで弱いよ」と苦笑いしながら椅子に座り直した。
まもなくスタートした勝負の結果はボロ負け。その負けっぷりと悔しがり方は嬉しかったと渡さんからフィードバックをもらった。
けど、私は開始前の自分の発言が気になった。
自らハードルを下げた「まじで弱いよ」、
私はなんのために言った?
負けっぷりに会場が沸いたけど、だったら開始前強気でいた方がより面白かったじゃん。
相手に「強そう」と言われたやつが自信満々に椅子に座る。観客は期待が上がってワクワクするだろう。ところがいざ始まってみれば気持ちのいい負けっぷり。それは観客にとって嬉しい裏切りになるじゃないか。
自らハードル下げて始めた今のより、観客の心の動きはきっと大きくなったはず。
【観客を楽しませる】という観点でいけば、完全に失言だ。
周りからも弱々しく見えていて、自分でも弱いと思っていたならわかる。そこで大ボラ吹いたところで見え透いていて萎えさせるだけだろう。
でも、強そうに見えてたんだ、私は。
そして最高のパスを渡してもらっていた、のにさ。
ハードルを下げるメリットを考えてみても、今回においてはなにもない。
私がスポーツ選手だったら本来の実力と見せかけの乖離が困るかもしれないけど。
勝ち負け関係なく、【観客を楽しませる】ことを目的とするこの場で、ハードルを下げるメリットは存在しない。
じゃあなぜそんな言葉が自分から出てしまったのか。
ひとつは、慣れ。期待されることの恐れが私にはある。
心の中では、期待されたい、期待を作りたいって思っているけど、恐れから反射で逆のものが出る。
これはもう習慣づいてしまっているから、積み重ねで解決するしかない。きっとインプロ中だけでは足りないから、日常から。
そして、もうひとつの理由が自分の中では大きな発見だった。
まず、過去を思い返すと、似たような場面がたくさんあって、「こう言ったほうが盛り上がるのかもな」と思いつつそれを言わない、というパターンを何度も何度も繰り返していた。
ただ、今と昔では大きな違いがあって、昔は私の頭の中で何が起きていたか振り返りで話すこともなかった。
なんで話さなかったのか、
話せなかったのか、
考えてみた時に気づいたことがある。
"だって、キャラじゃないし"
そう思う自分がいた。
みきのんっぽくないって思わせるかなとか、
そんな面あったんだってびっくりさせちゃうかな、
とか。
だから、言わない。やらない。
そういう思考で”しない”選択をしてきた。
インプロの場だけでなく、あらゆるところで。
そう、”キャラじゃないし”って、これまでも結構言い訳に使ってきた思考だと思う。
それに気づいたときに身体から羞恥心が湧き上がった。
だって、そんなこと思うくらい、私は私のキャラわかっているのか。
烏滸がましいにも程がある。
キャラなんて、どこにいるのか、誰といるのかによって多少変化するし、この10年20年振り返れば、昔と今で違うところがたくさんあるのに。
その場に望まれていても、自分が望んでいないことならやらなくていいと思う。自分の気持ちを殺すことだから。
でも、【観ている人やこの場を盛り上げたい】って私は今"自分で"望んでいるんだ。
望むことをやって消えるキャラなんて、薄れる個性なんて、本当に”自分”と言えるのか。
今まで何を守ってきたんだろう。
自分で勝手に作った枠があったんだなって実感した。枠の中にいることに慣れすぎて、外に出るとまだ少しギクシャクするけど、行きたい方向がそっちなら、迷わず出ていきたい。
今、すごく身軽だしワクワクしている。
いただいたサポートは執筆する際のカフェ代・知識を蓄えるためのWSや書籍代として使います。得たものをまたみなさんに届けますね。