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表彰状をもらったことのない人生を想像したことがなかった

23歳頃の話。スキューバダイビングの初級ライセンスを取ったとき指導員のひとりが言った。

「こんな風に賞状をもらうことが
 はじめての人もいるかもしれません」

え!?

そういう人生を全く想像したことがなかった。そんな人もいるのか、と軽いショックを受けた。自慢話ではないけれど、トロフィー・盾・メダル・賞状は飽きるほどもらった。

スポーツ・絵・文章・創作、それぞれの分野で何回も表彰されたことがある。どれもこれも小さな団体の特別に騒がれないイベントで。だから渇望感も違和感もどちらも持っていない。もっと大きな舞台で表彰されたいとも思わなかった。

むしろうまくできないことにどんどん興味が動いた。料理・歌・恋愛・化粧・服・語学。知らないことを覚えるのは楽しいし刺激的。今も同じ。ただ単純におもしろい。できなかったことができるその過程が楽しい。

ひとは「ない」もの「めずらしい」体験を求める。

サクッと器用にできてしまうと飽きるのも早い。そして結果にこだわれない。こだわりが生まれたら、それを原動力にすればいい。過去の栄光はどうでもいい。トロフィーは墓場の石塔。賞状は封印の札。

息子達が日本の実家でたくさんのトロフィーを見たとき、欲しがったのでひとつイタリアへ持ってきたけれども、離婚と引っ越しを機に処分した。実家のトロフィーや盾も処分していいよ、と伝えた。

イタリア人の元ダンナが、彼の安っぽい2つのトロフィーを後生大事にしていると知ったときも、ダイビングライセンスの受領式のことを思い出した。劣等感や自己否定感に苛まれがちな人にとって、なにかを達成した証は大切な宝物なのだろう。他人にはまったく意味のないものでも。

これまでの人生で、世界に通じる何かを達成しようと考えたことが全くなかったのは、なんとなくやっていたことで日本の全国大会レベルの表彰を受けた体験があるからなのかもしれない。たとえそれがマニアックなものでも。

それを一生やっていこうなどと考えたこともなくて、ただ機会があって好奇心が動いたからやった。昔の負けず嫌いの気質ももちろん後押しした。完璧主義も動力になった。けれども、ちくしょう!絶対にやってやる!という感じの熱い情熱を抱くことは、どうしても肌に合わない。

過去の出来事は今となってはすべて貴重な体験。

もういいや。

そんな感覚が湧くとやる気がうせる。情熱が湧いてこない。とはいえ探究心は旺盛。好奇心も尽きない。観察と分析も楽しい。新しい小技を習得するのも好き。

成長とともに、なにかやるならば稼げるか、誰かの役にたたないと意味がないのかな?という刷り込みがされた。少しずつ。気づかないうちに。または世間をあっと言わせるくらいのことでないと時間を注ぐ意味はないのかも、とういような「垢」がこびりついた。

夢中になることがすぐに現金収入や他人からの称賛につながらなくてもやっていい、と、自分に許可を出すまで長い長い道を歩いてきた。いつ、とはハッキリ線を引けない。けれども私は変わったと感じる。過去形ではない。刻々と変化している。

何度も表彰された日々の記憶はまるで過去世のように淡い。思い出せるけれども遠い。

私は今を生きる。

針仕事へ行ってきます。
素敵な1日をお過ごしください。

(はてなブログ「アレコレ楽書きessay」2022.11.2 加筆修正・転載)


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