句読点「、」「。」を効果を狙って打つ/作家の僕がやっている文章術091
句読点「、」「。」をどこに打つのかに迷うときがあります。
<文例1>
私は、小学生のとき、パン屋さんに、憧れて、将来は、パン屋さんに、なりたいなぁ、と思いました。
句点「、」は、文節のどこの場所にも打つことができます。
<文例2>
私は小学生のときパン屋さんに憧れて将来はパン屋さんになりたいなぁと思いました。
句点「、」が打たれていないと、なるほど読みにくい文章になります。
<文例3>
私は、小学生のとき、パン屋さんに憧れて、将来はパン屋さんになりたいなぁと思いました。
前半に句点「、」が集中するのも、読み取りにくい文章になりがちです。
<文例4>
私は小学生のとき、パン屋さんに憧れて、将来はパン屋さんになりたいなぁと、思いました。
文例4は、句点「、」の位置が文字量に対して、バランスがとれているように読み取れます。
句点は、文字量のバランスで打つというセオリーは存在します。
いっぽうで、文章で伝えたいウェイトを置くべき、その単語に留意して句点を打つというセオリーも存在します。
<文例5>
私は、小学生のときパン屋さんに憧れて将来は、パン屋さんになりたいなぁ、と思いました。
文例5では句点「、」の前の単語が、読者の印象に残ります。
「私」「将来」「なぁ」に言葉のウェイトが置かれているのです。
「私は将来(パン屋さんになりたい)なぁ」と思った。
というイメージが読者に強く印象づけられます。
<文例6>
私は小学生のときパン屋さんに憧れて、将来はパン屋さんになりたいなぁと思いました。
文例6では「憧れ」が言葉のウェイトとして印象に残ります。同時に句点「、」のすぐ後ろの「将来」にも読者の注目が集まります。
「憧れて、将来(はパン屋さんに)」
が読者へのイメージとして強く残るわけです。
句読点は「呼吸の長さ」で打つ、というセオリーも存在します。
<文例7>
雪深い山村に向かう峠の道もまた雪深く、伊織はかんじきを履いた足を、踏み込んだ雪から腹のあたりまでずっぽりと抜いて、また次の一歩を真新しい雪の中に、踏み出すというより突き刺すように沈めるたびに吐息を白く吐いた。
腰に手挟んでいた朱鞘の大小の刀は、雪道を進むには妨げになるので、左手に握って空に突き立てるようにまっすぐに掲げて、雪の中を進んだ。
【即興/美樹香月】
著者の呼吸と読者の呼吸を、文章の中で同期させる。
その位置で、読点を打っています。
文例7の文章で句読点に同調するとしたら、読者は雪道を歩いて進む伊織を傍観しているように読み取れます。
<文例8>
雪深い、山村に、向かう、峠の道も、雪深く。
伊織は、かんじきを、履いた足を、踏み。
雪から腹のあたりまで、足をずっぽりと抜いて、また次の一歩を。
真新しい、雪の道に、踏み出す。
足を、突き刺すように、沈める。
白い吐息を吐く。
腰に、手挟んでいた、朱鞘の大小は、雪道を進むには、妨げになる。
だから、左手に握って、空に突き立てるように、まっすぐに掲げ、雪の中を進んだ。
句点「、」の位置に配慮し、読点「。」を増やしました。
主人公の動悸に沿った息づかいと、文章の呼吸の同調をはかったものです。
文例8は試みとして、句読点の位置による効果を試してみたものです。
谷崎潤一郎は、句読点が少なく、それは谷崎潤一郎自身の呼吸が長かったからではないかといわれています。
太宰治は、句読点がやたらと多く、それは太宰治自身の呼吸が浅かったからではないかといわれています。
いや、句読点を水増しして、文字量を増やし、原稿料を稼ぐためだと、まことしやかに批判する人もいます。
句読点は、文法の約束としては「文節に打つ」というルールがあるばかりで、強制的なルールがあるわけではありません。
しかし「何となく打つ」よりは「意図的に打つ」「効果的に打つ」ことを試してみるのも面白いかもしれません。
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