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【紹介でつながる仕事】120冊以上執筆しているライターの軌跡とは

企業が終身雇用を持続させるのは難しいと考え、副業の解禁や新しい雇用形態などへの制度変更を行い、一人ひとりが働き方を考える際の選択肢が増えてきた現代。

「なんとなく働き方に違和感を覚えているけれど、どうしたらいいのかわからない」と感じる人も多いのではないでしょうか。

そこで本インタビュー集「キャリアの転換から学ぶ」では、あらゆる人のキャリア変遷をお聞きしながら、働き方に悩む方に”考えるためのヒントや選択肢”を提案していきます。

今回紹介するのは、専門学生時代からライターになり、その道で20年以上のキャリアを積まれた 佐口 賢作(さぐち けんさく)さんです。

2人のお子さんを持つパパでもあり、雑誌や書籍であまたの記事を執筆された佐口さんにとってのキャリアの転換点を聞きます。

※本記事は80分のインタビューを一人称に記事化したものです。
それではスタート!

雑誌の世界に憧れてライターに

「雑誌の仕事がしたい」。その思いで、メディア業界への就職を目指す学生が集まる専門学校の編集科に通いました。
当時、『LOGiN』という雑誌が発行されており、誌面に編集者のキャラクターが表に出る企画がいくつも掲載され、楽しそうなイメージを持っていたことから、その編集部に入りたいと思ったのです。
 
僕の学生時代はまだインターネットがなく、あるのはパソコン通信と電子掲示板。現在のように、オンライン上にリッチなコンテンツが溢れている時代ではありませんでした。
情報の入手源は、雑誌かテレビかラジオが主流。学生の頃は小説や漫画ぐらいしか読んでいなかったので、ビジネス書や実用書を作る書籍の編集部に対するイメージがあまりなく、紙の媒体といえば雑誌でした。

コンビニには窓際にあるラック一面に雑誌が置かれ、店舗数の増加に伴って配本数も増加。各誌の発行部数はどんどん増え、日本のバブルは崩壊していましたが、雑誌のバブルはそのあと5年くらい続いたのです。
こうした状況を受け、僕は雑誌の仕事に対して、ポジティブなイメージを持っていました。
 
ところが、専門学校に入ると、これは無理だということが、すぐにわかります。編集科は1学年4クラス、合計140人くらい。それがふた学年あるので、ひとつの専門学校で出版業界に新卒で採用される人数を超えていました。

さらに、大手出版社の新卒採用では、四大卒でもトップレベルの大学を卒業した人しか内定がもらえません。専門学校から入れるのは、中堅以下の出版社です。それも就職実績は年に数人。
冷静に数字を見れば、ここから出版社に入るのには相当難しいことがはっきりとわかりました。

旧知の先生に紹介され編集プロダクションへ

 専門学校に通いながら、しばらくアルバイトとしてリンガーハットで働いていました。鍋を振り、ちゃんぽんを作る。そんな日々を過ごしていたなか、偶然、出版社の編集部に潜り込めるチャンスがやってきました。

きっかけをくれたのは、高校時代の古文の先生です。自分が高校生だった頃、先生は22、23歳。新任の教師として教え方に悩んでおり、同級生のグループで「こうやって教えてみたらいいんじゃない」とアドバイスするなかで、比較的親しくなったのです。
年齢は5歳くらい上でしたが、漫画やサブカルチャーが好きな先生とは話が合いました。ちょっと年の離れた友達みたいな関係性だったと思います。
 
僕たちが卒業した年、どのような心境の変化があったのかはわからないのですが、先生は教師をやめて、第二新卒として青春出版社に転職。そこで編集者になったのです。
卒業後もたまに交流があったため、先生は僕が専門学校に通って編集を学んでいることを知っていました。ちょうど編集部で雑誌のデータマンをする若手を探しているタイミングが重なり、編集部に紹介してくれたのです。
こうして、僕はライターの道に足を踏み入れることができました。

データマンとして現場で学ぶ日々

高校時代の古文の先生に紹介され、『月刊BIG tomorrow』(青春出版社から出版されていたビジネス雑誌)の編集部に挨拶をしに行きました。

その日に初めてお会いした副編集長から「頼みたい取材があるけど行く?」と聞かれ、「行きます」と答えると「じゃ、2日後だから」と。あっという間に取材デビューが決まりました。当日、入学式のときに親から買ってもらったスーツを着て、医科歯科大学へ取材に行きました。
思い返しても、未経験の若造をよくすぐに現場に出したな、と感じます。

現場での最初の仕事は、テープレコーダーを回して録音しながら副編集長が医師に「サラリーマンにとっての昼寝の効用」についてインタビューするのを横で聞き、後日、その音源を起こすこと。「文字起こしって、すごく大変じゃん」というのが、当時の率直な感想でした。

現在、そうしたやり方はほとんどなくなりましたが、当時はアンカーシステムで特集が作られていました。アンカーマンと呼ばれるベテランのライターの下に何人かデータマンが付きます。データマンはそれぞれが特集のテーマに見合った取材相手を探し、アポを取り、取材、文字起こしを担当。その文字起こし原稿をアンカーマンが誌面に掲載される記事にまとめていくのです。
僕はその後5年くらいは『BIG tomorrow』でのデータマンの仕事を続けました。
 
データマンを始めてからしばらくは、リンガーハットのアルバイトも並行していました。しかしそのうち、リンガーハットのシフトと取材の予定が重なり、アルバイトを休むことが増えたのです。アルバイト先に悪いなと悩みながらシフトに入っていたある日、ポロッと30代半ばのパート社員の方に相談しました。すると、その方が「やりたいほうの仕事が忙しくなってきたなら、そっちをやったらいいんじゃない?」と言ってくださったのです。「言われてみたら、そのとおりだ」と。

店長からはリンガーハットの社員になることを打診されましたが、丁重にお断りし、アルバイトを辞めてライターの仕事をたくさんやる方向へと、シフトしていったのです。
 
データマンを始めて半年くらい経った頃、『ファミコン通信』というゲーム雑誌のエンタメページを担当している編集プロダクションを紹介していただきました。そこで担当したのは、新発売のビデオやCDの情報を150文字くらいでまとめる仕事です。それを毎号20〜30ほど行いました。
映画会社やレコード会社などから届くリリースをもとに原稿を作るため取材がなく、執筆は資料ベース。編集者がチェックして、問題なければ誌面に載ります。
ただ、この編集者の赤入れが非常に厳しく、商業媒体で書く「てにをは」の基礎を鍛えられました。今思えば、新人の原稿を直して給料が増えるわけではありません。本当に愛情深い人だったのだと感謝しています。

また、『ファミコン通信』では、21歳くらいの時に映画の撮影所やテレビ局のスタジオなどでタレントを取材する機会ももらいました。作成したのは、3分の1ページくらいのインタビューコーナー。取材者も若手なら、登場する方々もこれから世に出て行く新人さんばかりでした。印象深いのは、SUPER MONKEY'S時代の安室奈美恵さんに取材したこと。「音楽をやりたいのでこれから頑張ります」と、ドラマの撮影に臨んでいたその2年後には、ゴールデンタイムの音楽番組に出演し、ソロで歌唱していたのですから、夢のある世界です。
雑誌という媒体の力が、ついこの間まで学生だった新人ライターを今まで行けなかったところにいきなり行けるようにしてくれたように思います。

紹介でつながる仕事

その後は『Tokyo Walker』(KADOKAWA)や『週刊SPA!』(扶桑社)、昔出ていた『BART』(集英社)という男性誌や、『週刊プレイボーイ』(集英社)、『DIME』(小学館)、『グッズプレス』(徳間書店)などで書きました。

ライターを始めて4〜5年くらいしたら、まあまあ仕事がくるようになっていたのです。
それでも年齢はまだ23とか24歳くらい。30代くらいのデスククラスの方々からは使いやすいと思われていたようで、いろいろな仕事を任せていただきました。
 
出版社はわりと同じ街にたくさんあるため、各社の編集者は飲み屋などで知り合いになっていたようです。どこかの編集部で人手が足りないという話になったときに「うちにすごく若いのがいる」と、知り合いの編集者が、自分がいないところで別の編集者へ紹介してくださったこともありました。
そのうち電話がかかってきて打ち合わせに行くと、編集者から「こういうページがあるけれど、やってみる?」と依頼される。ありがたいお話を断るはずがありません。

もちろん、やってみたすべての仕事が続くわけではなく、力不足やしくじり、媒体の相性などの問題で1回のみで終わってしまうこともありました。それでも20代はとにかく紹介を受けて、新しい仕事を開拓していくことの繰り返しでした。
 
当時は1本1本の仕事が、営業のようになっていたのでしょう。大事なのは原稿の出来だけではありません。取材相手に接する仕事ですから、編集者はライターの人となりを無言のうちにチェックしています。集合場所から取材に向かう間、取材終わりにカフェで休憩している間、雑談も簡単な面接のようなもの。
取材現場での立ち振る舞い、原稿もまあまあ悪くなく、普通に喋っていても嫌な感じがしない。そうであれば、ライターを探す同業者に、あのライターを紹介してみようかな、と思ってもらえたのだと感じます。

二度目のきっかけで本格的にブックライターへ

ブックライティングを行うようになったきっかけは、2段階あります。最初のタイミングは、24、25歳くらいの頃。
『BIG tomorrow』で執筆し、雑誌の仕事がわりと軌道に乗ってきた時期です。ある編集者から「書籍のライターを探す著者志望の人がいる」と、ある著者を紹介されました。話を聞くと「こういう企画で出版社と話しているので、原稿を書いてほしい」という依頼。
それならば、とインタビューして書き上げたものの、結局著者が出版社に企画を通せませんでした。自分がした仕事は、結局タダ働きに。

当時はブックライティングという言葉はなく、ゴーストライターと呼ばれていたその仕事に対して「なんかゴースト、怖いぞ……」という印象が植え付けられました。
苦い思い出となり、その後、しばらくはブックライティングの仕事からは遠ざかっていたのです。
 
2度目のきっかけは、雑誌の連載ページをまとめるという形でやってきました。30歳くらいの頃、月刊誌でテリー伊藤さんが毎回読者などから送られてくる悩みに答えるというページの担当ライターをしていました。1年くらいすると原稿がたまるので、新しいインタビューも加え、それを書籍にするという流れに。雑誌の出版社にある書籍部門の編集者と、連載をまとめる書籍を作りました。
当然、企画は通っています。そのうえ、雑誌の連載時にもらった+書籍として出版された分の原稿料ももらえるので「これは悪くないな」と。

その後、似た流れで別の書籍も何冊か執筆すると「あのライター、ちゃんと1冊分の原稿を書けるよ。癖のある著者でも大丈夫そうだよ」と、また別の編集者にも紹介されるようになりました。1冊の仕事が営業代わりになり、次の紹介がつながる流れは、雑誌よりも書籍のほうがより強かったと思います。

編集者から評価いただいたのは「話し言葉を織り交ぜて原稿を仕上げるのがうまい」という点。『BIG tomorrow』などで、一人語りのインタビュー記事をたくさん作ってきたからでしょう。雑誌で身につけた技術が、おそらく書籍のほうでも活きているのだと感じます。

性格に合わず手放した仕事も

書籍を作って最初にめぐまれたヒット作は『ワーキングプア』(門倉 貴史著/宝島社)でした。ワーキングプアの問題が社会問題化していく直前に、経済評論家の方と作ったこちらの書籍は、タイミングよく12、13万部売れたのです。

僕自身の役割は、ワーキングプアな状況にある人を探し出し、取材し、ドキュメントページの原稿をまとめることでした。ただ、自分自身の気持ちがなかなかついていかなかったことを覚えています。なぜなら、当事者のなかには自分の窮状を訴えたい人もいれば、頑張って働いているだけだ、という人もいたからです。「事情の異なる人たちに対して”貧困状態”と、レッテルを貼っていくのはどうなのだろう」と。

ジャーナリストやルポライターに憧れていた部分はあったものの、僕には無理だなと、そこで実感したのです。
 
30代後半で産業カウンセラーの資格を取ったときにも、似たような経験がありました。当時、母親が長いことうつ病を患っていたので、自分がしてきた経験からメンタルヘルス関係で誰かのお役に立てないだろうかと思ったのです。
今から大学に行くのも難しい……と思っていたところ、産業カウンセラーの資格だったら役に立つらしいということで、講座を受けてみました。
 
最初はカウンセリング活動を少しやったものの、あまり性に合いませんでした。無理ではないのですが、心がしんどいのです。どうしてもインタビューの癖が出てしまうこともありました。それは、カウンセリングの聞き方とは異なります。
うまく切り分けができず、仕事を少しだけしたあとは、カウンセリングからは遠ざかりました。
 
その後、出版したのが『ぼくのオカンがうつになった。』(佐口 賢作著/PHP研究所)です。頼もしかったはずの親が鬱々としてしまったとき、子どもに何ができるのかを伝えたい。その思いはこちらの書籍を企画したことで、形になりました。
親のうつ病をどう受け止めて、自分の人生を楽しむか。自分の経験をサンプルとして、そのことを、漫画とコラムで伝えています。

仕事が次の仕事を呼び込んだ

こうして手放した仕事のジャンルもありますが、売れた書籍のことは他の出版社にいる編集者も見ているようでした。「あの書籍を担当したライターなんですね」と、人を介さずに別の仕事が来るようになっていきました。
その後、ブックライティングを長年続け、合計で124冊ほどの書籍をお手伝いしています(2024.7月時点)。

専門学生時代から依頼されて書くことを繰り返していたので、キャリアの転換点みたいなところがおそらくないように思うのです。
 
ただ、好転したという意味でいうと、メンタリストDaiGoさんの『人を操る禁断の文章術』(かんき出版)のブックライティングをしたときが、そうだったのかもしれません。

書籍を出版するその頃は、芸能人的な立ち位置だったメンタリストDaiGoさんが、ビジネスに精通している心理のスペシャリストへとキャリアを変えていくタイミングでした。文章術の書籍を作るときに、ご本人が「とにかくここはヒットさせたい」と力を入れていたのです。もちろん、僕や編集者も同じ思いでした。

とはいえ誰も、ビジネス書のヒットの法則がわかりません。皆で書店へ行き、当時のベストセラーを集めて目次を眺め、書籍の構造に共通点はないかと探しました。そうしたら「これじゃない?」と、それらしきものが見えてきたのです。それをベースに構成案を立てようという流れになりました。

書籍の構成は、一般的に編集者と著者とで作成するケースがほとんどです。その垣根を飛ばしてみんなで設計図を作ったのは、思い出深い出来事でした。その設計図をもとに取材して執筆した文章術の書籍は、10万部を超えるヒットになったのです。
 
数か月後、このフォーマットでもう1冊、何か違う書籍を作りましょうという流れになりました。そうしてできたのが『自分を操る超集中力』(かんき出版)です。

こちらは現時点で40万部を超えるヒットとなっており、メンタリストDaiGoさんの書籍のなかで、一番売れています。

メンタリストDaiGoさんはとにかく優秀な方なので、書籍のヒットがあるなしにかかわらず忙しくなっていたと思いますが、僕自身はそこからライターとして彼の書籍を、たくさんやらせていただきました。
力のある著者の方には、各社、エース級の編集者が付きます。そのなかで、僕自身も接する編集者が変わっていったのです。優秀な編集者と別の著者とで、書籍を作る機会も増えました。ヒット作が次の良い仕事を呼び込んでくれるんだ、と実感した出来事です。

企画の種を見つけるべくライター講座へ

幸い、ライターを始めて30年くらい依頼が途切れないまま、いろいろな媒体で聞いて書くことをしてきました。もうあと15年くらい仕事をしたいなと思っています。
 
今如実なのは、書店が減っていて書籍が昔ほどは売れなくなってきていることです。
また、僕が仲良くしている編集者は皆さん徐々に管理職となり、現場から離れていっています。その時に若い編集者に引き継がれるかというと、おそらくそうではないはずです。きっと若い編集者は、自分のネットワークを別で持っているでしょう。
この先、昔のように紹介で仕事がつながる流れが途切れるかもしれない。そんな感触があります。
 
どうにかして違う軸も育てなければなりません。そこで今後は、依頼はないけれど、聞いて書くという仕事をしたいと思っています。自分自身、今まで能動的に企画を立て、取材執筆を行っていった経験がほとんどありません。

ヒントを得るべく、ライターの川内イオさんが主催する「稀人(まれびと)ハンタースクール」というライター講座に通いました。川内イオさんはご自身を「『規格外の稀な人』を追う稀人ハンター」と名乗り、独自の企画を立てて取材記事を書かれています。その講座で学び、今後やるべきことがおぼろげには見えてきたところです。

今後は企画になりそうな種を見つけてきて、執筆する。こうしたやり方を仕事全体のなかで、少しずつ増やしていけたらよいなと思っています。

インタビュイー編集佐口 賢作(さぐち けんさく)さん
主に書籍の執筆をするライター。
1993年よりフリーライターになり、雑誌やWeb、書籍にてあまたの原稿を執筆。
これまで124冊ほど(2024.7時点)の書籍を執筆。

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執筆者:ミキ
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