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巨人の肩に乗る

ある日、娘が小五の時に言った。

「私立の中学に行きたい」

理由を聞いてみるとクラスメートにやんちゃな男女が一人づついて様々な問題行動を起こし、担任の先生を困らせている、だから中学になってまた同じクラスになりたくない、からだそうだ。自分で調べて、ある中高一貫校に行きたいと言う。

妻が問う。
校区内の公立中学校に行けば歩いていける、その学校に進学したら電車通学になるから定期代もかかるし、朝早く起きないといけない。中学受験するなら塾に通わないといけないけど、最悪このマンションを引っ越さないといけなくなるかもしれない。それでもいいの?

妻の言い分はもっともである。娘は僕が50歳の時の子どもだ。既に定年退職し、今は嘱託で働いている。妻は派遣社員としてコールセンターで働いている。勤続年数が長いので時給はそこそこだが、離職率の非常に高い職種だ。35年ローンで買った中古マンションを退職金で繰り上げ返済したが、あと400万円ローンが残っている。塾代を聞いて驚いた。目が飛び出すほどのお金だ。

娘は「それでもいい」と言った。その言葉で石橋を叩いて叩いて渡る妻が決心した。

「わかった。老後の貯金を吐き出そう」

未来のことより、現在である。「過去はない、未来はまだない、あるのは現在だけである」という誰かの名言が頭をよぎる。
理由はどうであれ、勉強したいという意欲が湧いたことを良しとしたい。

近所の塾の何件かを体験授業して、本人がここがいいと言うところに入塾。受験まで一年を切った時期なので遅いスタートだ。中学受験は本来ならもっと早い時期から始めないといけないのだが、経済的な余裕がないのでこれも良しとしよう。

入塾して全塾の学力テストを受けたのだが、娘は偏差値30。志望校は61だ。
「ビリギャル」かよ。

塾には一日も休まずにまじめに通っている。面談の時に塾長にも「すごく真面目です」と言われた。他に褒めようがなかったかもしれないが。
娘も塾は楽しいと言う。学ぶことの面白さがわかってきたようで親としては嬉しい。

五か月経って学力は上がってきたが、それでもまだ偏差値は50以下だ。夏休みの夏期講習、一日8時間×3日、昼休みも弁当を食べる20分のみという虎の穴(注 タイガーマスク)にも参加したいというのでそれも申し込み、地下鉄で送り迎えもした。

金食い虫か!毒を喰らわば皿までだ。さあ殺せ!

これで来年落ちたら、と考えると心臓がバグる。

8月末に志望校のオープンスクールがあったのでモチベが上がると思い、娘と行ってきた。

駅を降りて学校に向かう。われわれは二部に参加するのだが、一部を終えてすれ違うお子たち。誰もかれもがかしこに見える。
受付は先生と生徒が一組になってテキパキと来校者をさばいている。さすが自主独立を謳う学校だ。名前を言うと模擬授業のクラスを告げてくれる。われわれは社会科のクラスだった。
この学校はネイティブが英語で授業するというのがウリなので、英語だけ3クラスあったのだが既に満席。ちょっと損したような気分で教室へ。どうやら子どもと一緒に保護者も授業を受けるらしい。

参加者は保護者も入れて30人ほど。
授業が始まり、先生は「テストをやってみましょう。ある大学の入試問題です」とプリントを配る。問題は「東アジアの地図が①②③あります。古い順に並べなさい」

地図が3種類。①は日本が北海道も本州という区分がない、団子のような一つの島となっているから①が一番古いのは間違いないと思う。②③は一応区分されている。しかし甲乙つけ難し。支那大陸も似たり寄ったりだ。うーんと悩んで適当に書いた。

時間が来たのでプリントを回収し、先生が説明する。

「地図の違いを口で説明するのは難しいですよね。国土の形とか。でも数字というのはどの国
でも同じです。1は日本でもインドでもヨーロッパでも1です。そして受験生の中にはよく問題文を読まずに試験に取り組む生徒がいます。この問題文には『時代を経るにつれて情報量が増してきます』と書いてあります」

え、その文章を深く考えずに読み飛ばしてましたけど。

「もし私たちがいる日本の位置を説明するとしたらどうしますか。数字で表すことが一番正確です。日本の国土は, 経度でおよそ東経122度∼ 154度の間,緯度でおよそ北緯20度∼46度の間に位置しています。①の地図には緯度線、経度線がありません。②は緯度経度線が引かれています。③になるとその数が増えています」

そうか、『時代を経るにつれて情報量が増してきます』は大きなヒントだったのか。
娘の塾のドリルの算数を時々やってみるが、かなりの難問である。苦心惨憺しながら取り組んでいるうちに、ふと気づいた。学問の基礎は数学ではないだろか。
ギリシャ哲学は数学から派生したという。デカルト、ピタゴラス、アルキメデスらは数学者で哲学者であった。大学の英文学の先生は「英語は数学などとは全く違う学問だ」と言っていたが(つまり血が通う人間同士のコミュニケーションとしての学問と言いたかったのだろう。これに対しても私は異論がある)、英語も日常会話レベルではなく、ディベートになると数学に行き着くはずだ。

先生はこうも言う。
「うちの生徒と口喧嘩しても絶対に勝てません。なぜなら例えば『いじめ』とは何かと意見を出させて、それをとことんまで定義させるからです」

言葉の定義はディベートにとって不可欠である。

「しかし、学ぶ人は相手に合わせることが大切です。自分が相手をコントロールすることではありません。学ぶ人は傲慢であってはなりません。謙虚であるべきです」

学ぶ者は傲慢であってはならない、か。

「知識があるということと頭がいいということは違います。知識を否定しているわけではありませんよ。もしパスタ、玉ねぎ、ひき肉、トマト缶があったら何を作りますか?君だったら?」

と一人の児童を指す。

「トマトスパゲティです」

「そうですね。でもその材料がなかったらどうします?お手上げですよね。材料は知識です。知識を使って何を作り出すかが重要なんです」

僕はニュートンの書簡にあった「巨人の肩に乗る」という言葉を思い出した。先人が学んだ知識を学び、それに自らが学んだ知識を加えると遠くまで見渡すことができる。

授業が終わると児童と保護者から拍手が起きた。
僕はー
僕は気がついたら泣いていた。
学問という深淵を覗き込み、その計り知れない奥深さに感動した涙だった。
もっと勉強したいー心底そう思った。かつて勉強嫌いの落ちこぼれの劣等生の僕が。

僕は独身の時にもし結婚して子どもができたら「勉強しろ!」とは絶対言わないと決めていた。
それよりも「一緒に勉強しよう」と。
娘の教科書を読む。面白い。

娘には感謝している。娘のおかげで様々な体験ができて視野が広がった。

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