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当館収蔵の作家紹介 vol.7 北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)

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当館には近代の日本美術を代表する作品を数多く収蔵しています。展覧会を通じて作品を見ていただくことはできますが、それがどんな作家、アーティストによって生み出されたものなのか。またその背景には何があったのか。それらを知ると、いま皆さんが対峙している作品もまた違った感想をもって観ていただけるかもしれません。
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この連載で今回取り上げるのは北大路魯山人氏。明治から昭和にかけ幅広い分野で才能を開花させた人物。書道家、画家、篆刻家、陶芸家、そして料理家であり美食家。ひとつの肩書きで語ることの難しいこの風流人は逸話も多く、没後もさまざまなかたちで語り継がれてきました。
その北大路魯山人氏の作品は、2023年11月30日〜2024年2月24日の展覧会『魯山人と織部 』でご覧いただけます。

京都上賀茂神社の社家の息子として生まれる。とされているが、母の不貞によりできた子であるとされ、父はその不貞が原因で生まれる直前に自殺。また母の育児放棄により農家に捨てられ、その後、養子先を転々、という超ハードモードスタート。12歳の時に奉公先で見つけた小料理屋の看板に描かれた亀の絵に感動! それを描いたのが、のちに京都画壇の総帥となる「竹内栖鳳」。この小料理屋の長男であった。

写真提供/宮島「北大路魯山人美術館」

絵を志すも画材が高いので賞金の付いた書道コンクールに応募したらいきなり入賞。その後、賞金稼ぎとして数々のコンクールを受賞。1903年(20歳)自分を捨てた母に関する情報が手に入り上京。しかし受け入れてもらえず、そのまま在京し看板などを描く。翌年には日本美術協会の展覧会で一等を受賞。更に翌年、版下書きの岡本可亭の家で住み込みを始める。この岡本可亭は、岡本太郎の祖父にあたる。その後、1913年(30歳)あの看板を描いた憧れの竹内栖鳳に会い、彼の篆刻を造らせてもらうことになり画壇コネクションができる。書家・画家・篆刻家などを仕事とするが、すでにパトロンが多く、彼らに料理を振る舞っていた。


その後、骨董屋を始めるが、そこでは自作の茶碗なども売り始める。また美食倶楽部というコミュニティを創設。骨董や自作の器を使い自分の料理を振る舞い出す。これが人気となり星ヶ岡茶寮という高級料亭をオープン。こうして美食家、料理家、陶芸家、芸術家など多彩な魯山人が出来上がる。しかし毒舌家としても活躍しすぎ、自らの料亭を追放!その後も天衣無縫っぷりは、ひどく、柳宗悦や梅原龍三郎、横山大観といった大御所にも喧嘩を売る。そしてピカソにまで毒舌を吐く。まあ、こういう方なので、離婚6回も頷ける。作品について言うと器が最も多く数十万点以上作ったとか。今でも料亭などで使われているものもあり、お目にかかることがあるかも。76歳で死去するが、死因は大好きだったタニシを食べすぎ肝硬変になったことであった。

                                      [企画・編集/ヴァーティカル 作家紹介/あかぎよう]  




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