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「毒母」の「捨て」方

斉藤環先生と菅野久美子さんの対談。これは#3だ。
「毒母」問題を抱えている方には、特に女性には全編一読をおススメしたい。
母と娘の決別が難しい理由が、私は少し理解できた気がする。

ちなみに私は、カーネーションには動揺しないが、かつて息子に「お母さん」と呼ばれるのが辛く「かあさん」に修正してもらった、という経緯を持つ。

少し引用する。
【斎藤】逆に言えば、子育て中の親が子どもをしっかりと承認することがいかに“コスパ”がいいか、ということでもあります。承認という比較的少ない労力で、自尊感情という一生ものの資本が手に入るわけですから。それだけ母の存在というのは娘にとっての根幹ですから、母に認めてもらいたいと思うのは普遍的な心理なんです。」

この「コスパ」という表現が、あまりにも私の感じていた感覚にドンピシャで爽快感すらあった。今まさに私は「母」として娘との関係改善に取り組んでいるからだ。
幼い頃にしっかりこれをやるほど、エネルギーも手間も最小で済むはずだと考えていたのだ。
それでも私は、彼女の思春期には間に合ったと考えている。つまり他者との関係をうまく結べないところから発生する莫大な負債を今後の彼女ひとりに押し付けて終わらないで済んだであろうということだ。

自分の体験から、まだ小さかった子どもたちには「親は、感謝して感謝して感謝して、捨てるものだ」と伝えていた。本人たちにとっては「そう言われてもねえ。捨てられるわけないじゃん。」だったらしい。それでも「捨てる」は私の本心で、親子の呪縛に子が苦しんだ場合それしかないと思っている。

何をもって「捨てる」なのか?問題だが、私としては「忘れる」「いちいち思い出さない」、そのことにより自分が日々暮らす中で親からもらった価値観(で、自分が望まないもの)に左右されて不便にならない、不愉快にならない、ということではないかなと考える。

娘が母を「捨てる」のは難しいとこのお二人が話していて、納得する部分も多い。

ひとつ私にわかるのは、ケア対象が実の娘で、渾身でケアを続け、娘からの信頼度を上げ続けていくことが、ぐるっと回って私の中の母問題の消去に繋がっていった、ということだ。
彼女が幼少のトラウマを、少しずつ少しずつ解除したり薄めたりすることを、私がその関係性の中で支援し、今後彼女が自らの環境下で穏やかに充実感をもって健やかに生きていけるように共に進むこと。その結果として私は「毒母」を「捨てて」いた。

今は自分の不快な思い込みを見つけ出し解決する時くらいしか、母からの仕打ちを思い出さない。母が8年前に急死したことも、多分大きいのだけれど。


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