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萩暮らし8日目【松陰神社へ】農協直営店で買い出し(4月26日)

この「萩暮らし」noteは、Mikawa&Co.合同会社の代表と社員の2人が、山口県萩市で4週間のお試し移住&ワーケーションを2024年のGW前後にやってみた記録です。萩暮らしも8日目を迎え、いよいよ萩が生んだ重要人物、吉田松陰にゆかりの地を訪れます。

きょうは終日、レンタカーを借りて、もろもろの買い出しに充てる日です。


吉田松陰ゆかりの松陰神社と松下村塾へ

朝早くから始めた仕事を終えて、お試し移住施設「さんちゃんち」のあるJR三見駅から山陰本線の電車(気動車=キハ40系なので“汽車だが)に乗って、萩市の主要駅である「東萩駅」へ向かいます。歩いて約15分で、中心街の近くにあるタイムズレンタカーに到着しました。

買い出しするスーパーなどが開店し始める時間帯が迫っていましたが、とその前に。
代表・Mがずっと行きたがっていた松陰神社を訪問しました。名前から想像できる通り、吉田松陰まつった神社です(※扉の写真です)。

吉田松陰について「松下村塾を開いた人」「安政の大獄で亡くなった人」と思っていたのですが、実は松下村塾を最初に開いたのは、松陰の叔父にあたる玉木文之進のようです。

大きな松の木に囲まれていて、特にそのうち1本は建物に覆いかぶさるように枝を伸ばしていたので、「もしかしたら松の木の下にあるから松下村塾なのかー!」と思ってしまいました(※あくまで個人の感想で、なんの根拠もありません)。

松陰神社に近い「松下村塾」。裏や向かって右側に大きな松の木が生えている

天才児・松陰の功績

松陰は9歳で明倫館の兵学師範に就任し、13歳で長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施したと言われています。かなり早熟な秀才(いや天才)だったんですね。松下村塾で講師を務めたのは、亡くなる直前の約2年。亡くなった時は、なんと29歳だったそうです。

ちなみに松下村塾は高杉晋作、伊藤博文、山県有朋といった著名人を輩出していますが、こうした明治維新の有力な志士・元勲たちの生誕地や実家、居宅などが萩市内にはたくさんあります。

松陰神社の境内には「学びの道」と名付けられた小道があり、松陰の言葉を記した句碑が計25基、並んでいます。含蓄のある言葉が多く、改めて書籍などで読んでみたいなぁ、と思いました。

個人的に気に入ったのはコレ

特に辞世の句と言われる『親思う心に勝る親心、今日のおとずれ何と聞くらむ』は、子を持つ親として社員・Yにはグッときました。「安政の大獄」で処刑されることがわかってから、家族に送った手紙に書かれていたようです。「子が親を思う気持ち以上に、親が子を思う気持ちは深く尊いものだ。私の処刑のことを聞いたら、両親はどんなに悲しむことだろうか」――。自分の死が迫ってもなお、両親の気持ちを慮れる人間性に心を揺さぶられました。

「ふれあいらんど萩」で野菜やパン購入

その後、すぐ近くにあるふれあいらんど萩で買い物。JA(農協)の直営店なので、新鮮な野菜がそろっています。シーズンということもあり、甘夏もたくさん並んでいました。

この店は野菜だけでなく、お惣菜や魚介類、パンも売っているので、なんならここだけで買い物を全て済ませることも可能。特にパンは大人気のようで、お店の開店待ちをして入り口に並んだ人が真っ先にパン売り場に向かい、お目当てのパンを何個も買い込む姿を見てしまいました。

私たちもこの日は野菜にパン、そしてお刺身も買いました。薄くスライスしてあったので、カルパッチョ風にして夕飯に。萩産の甘夏と、ディルというハーブをのせてさっぱり目に仕上げました。

パスタサラダやオレンジラペ、ブロッコリーに安いテーブルワインを合わせて

ブロッコリ―や紫キャベツのラぺに入っているキャベツ、ニンジン、ネーブルオレンジ、パスタサラダのキュウリも全て「ふれあいらんど萩」で購入したものです。久しぶりにワインを開けて乾杯!


【コメント by M  《2024/4/26》】  吉田松陰への「導き」を思う

レンタカーを借りている時間が午前9時から午後5時までなので、あまり見て回る時間がゆっくりと取れませんでしたが、吉田松陰先生ゆかりの地は「早めに見ておくべきでは」と思い、松陰神社を訪れました。GW前でしたが、そこそこの人出がありました(我々を含めて中高年の観光客ばかりでしたが)。

吉田松陰という人物の存在を改めて考えると、その短い生涯の間に遺した足跡は、日本の近代開国には不可欠であったと後に理解できる。

1853年(嘉永6年)にペリー艦隊が浦賀(現・神奈川県横須賀市)沖に現れると、師の佐久間象山とともに見に行って西洋文明にショックを受ける。その後に師の薦めで外国渡航(留学)を目指して長崎に寄港していたロシア軍艦に乗ろうと向かったところ、欧州でクリミア戦争が勃発したため、予定を繰り上げてロシア艦隊が出航してしまい、渡航を果たせなかった。

1854年にペリーが日米和親条約締結のために伊豆・下田に再来航した際、下田港から小舟でペリー艦隊の旗艦に漕ぎ寄せて乗船した。しかし、渡航は拒否されて幕府に引き渡された。そこで死罪は免れたものの、「国許蟄居くにもとちっきょ」となって萩で投獄される。

その収監先である「野山獄」で、松陰は同じくとらえられた人たちに『論語』や『孟子』を講じた。そして翌1855年に出獄となってから、叔父が開校した「松下村塾」の名を引き継ぎ、蟄居していた家で塾を開いた。

 松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった(山縣有朋、桂小五郎は松陰が明倫館時代の弟子であり、松下村塾には入塾していない)。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行うという「生きた学問」だったといわれる。

Wikipedia「吉田松陰」の項目から抜粋

松陰にとっては、自分の願うとおりにはいかない人生であっただろうが、やはり背後の導きによって「いるべき場所」にいて、「やるべきこと」を成したのだと思わされる。

クリミア戦争の勃発によって松陰はロシア艦隊への乗船を逃した。しかし、日本にとってはクリミア戦争で西欧列強の目と意識がヨーロッパ内に釘付けをなったことで、日本を含めてアジアへの列強のプレッシャーが弱まり、その間に開国へ向けた対処や準備ができるようになったと指摘される。

松陰神社の敷地内にある藤棚。
花の盛りは過ぎていたが枯れた中に残る美しさに惹きつけられた

その開国対応を徳川幕府側で指揮したのが、老中首座だった阿部正弘だ。いわゆる「安政の改革」を主導した人物で、幕府の鎖国終了と開国後のグランドデザインを手がけたとされる。

その阿部正弘は、ペリー艦隊で海外に密航しようとして捕縛された吉田松陰の死罪に強く反対した人物だったという。歴史を織りなす綾の「妙」を感じるとともに、それぞれに背後というか天界からの“導き”を思わされて、感慨深い松陰神社の初訪問となった。

松陰の実家である杉家の庭に開かれた「松下村塾」の全景

◆あす9日目は、三見漁港から徒歩で南へ向かい海岸沿いを“探検”します。


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