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ママの過剰な責任と罪悪感を手放す

ご飯を作っていたら、突然いい感覚が降ってきた!

これはメモるべき!!

この感覚を忘れたくないぞっと。


突然降ってきた言葉たち

発達多様性のある我が子たちの行動や発言に一喜一憂しない。

長い目で見て、できることをひとつずつ。

発達多様性に対して、親ができることってひと握り。

自分には難しそうなことをいかに周りの環境や人を使って、子どもたちに影響を与えてもらうか。

罪悪感があるとなかなかできないこと。

罪悪感を手放して、少し距離を置いてみて、子どもを客観視する。

同化しない。

自分だったら…とかは置いておく。


長く付き合うためのサポーターを見つけておく。

自分の楽しみも見つけておく。


我が家のサポーター↓↓

長男が行ってるデイの先生。

療育センターの主治医。

スクールカウンセリングの先生。

次男の飼ってるヒョウモントカゲモドキ。

三男の幼稚園の先生。

私の母が教えてくれているそろばん。

長男のチャレンジタッチ。

今日から始めた三男のすまいるぜみ幼児コース。

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軽くなった感覚はどこから

突然降ってきた言葉で私はとっても軽くなったの。

すまいるぜみをやってる三男と、それを横で教えてくれている次男を見ていたときなのね。

三男は言葉ではなかなか理解ができなくて、目で見て操作して理解するという力が強い。

フツーに生活していても、きっと社会性も学びもなかかか身につかないけれど、映像教材なら、しかもタッチしながら反応があるものなら学びにピッタリだって気づいた時にスマイルゼミの幼児コース、「すまいるぜみ」のチラシに出会ったのね。

運命ってこういうこと。


私がアレコレわかりやすくイラストや図化して教えていくのも限界があるし、幼稚園での学び方は三男には難しい部分もある。

だけど私がやらなかったら、三男は学びのスピードがゆっくりなのは変わらなくて、どんどん周りとは差がついてしまうだろうな、と思って。

それでも仕方がないし、三男のスピードなんだと思うけど、せっかく得意の学び方がハッキリしていて、ちょうどいいツールがあるのならやってみて損はない。

私の負担は少ないし。←大事!

幼稚園以外の社会的なルールや数、文字の学びができるツールとしてピッタリだなぁって思ったのよね。


で、今日届いて、やっているのを見て、えんぴつの持ち方も映像見て少し感覚をつかんだみたいだし、楽しそうにやりながら学べてる!

スゴイ!


それ見てて、

ああ、私が全部背負わなくていいんだ。

って思ったの。


私、長男のことも次男のことも三男のことも、うまくできない部分について、親としての責任を背負ってた。

私がどこかで何かしら介入しなきゃいけないよねって思ってた。


違う違う、私以外の何かしらのツールや環境、人でどうにかならないかなって考えても良かったのよ。

全部背負わなくてよかったんだよ。

全部背負ったら苦しいの当たり前だよ。


学校の先生から電話が来た時、親がなんとかしてくれって言われているようでつらかったけど、先生にお願いしてもいいかもしれない。

どんどん自分から手放していっていいんだよ。

周りや環境に頼るってそういうことなんだ。


ま、難しい部分が多いんだけどね…子どもたちのことを理解すればするほど、一般的とか私が当たり前って学んできたこととはかなりズレてしまうから。

周りに理解を求めるって、結構至難の業だから。


みんなと同じ、がゴールではないけれど、その子なりの方法や環境で社会に出られるっていうのは大事なことだと思ってる。

いろんなツールや人、環境を頼って、子どもたちを育ててもらう…そんな感覚も必要だなぁー。

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いつの間にか背負ってしまってたこと

息子たちにはなかなか理解してもらえないような感覚やこだわりがあって、集団活動がメインの保育園や学校では配慮をしてもらうのも難しいことが多々あった。


例えば長男も次男も給食が嫌いだった。

今は給食をよそうときに、少なめとかできたりするようで、無理のない量に調整することはできる。

先生からもひと声かけてもらったりはしているんだけど、その手順には乗れないらしい。

やってもいいことだけど、減らすという行為を自分でするのが嫌なのだとか。


知らん、と言いたい。

自分のことは自分でなんとかしてくれ、と。


でもそこへの勇気でかなりのエネルギーを使うらしいし、それを考えるだけで疲れてしまうのだとか。

この感覚、本人には相当なモノで、それが給食だけではなく、いろんな些細なことにつきまとっているようで。

結果、ガマンが募る。

そりゃどんどん行きたくなくなるよね、と思う。


そこで「ガマンも社会性のひとつだ、頑張れ!」が、通用しなくなってきている世の中だから、親だって悩む。

で、学校に行かなくていいよ、と言ってあげたいけど、学校に行かなくなると学びの提供は自分にのしかかる。

学校に行かない選択をして、復帰を視野に入れられないとき、親にできることってなんだろう?って急に責任重大になった気がする。


発達多様性の子への教育についての講演会で、こんな話が出てた。

「今の教育は答えが決まっていて、それを教える教師、子どもたちは受け身で理解する、覚えるだけ、という図になっている。

 失敗しても何度でもやらせてできるようになる、という本来の試行錯誤の中での学びにはなっていない。

 昔だってそうだったけど、ここまで細かくなかった。まだ遊びがあったように思う。

 今、学校に行き続けられるのは鈍感なタイプか我慢強いタイプのどちらかなんじゃないか。」

って。


そうそう、自分で考えて、試行錯誤しながら答えを探していくから楽しいんだよね。

この感覚はADHD特性強めな人は特にそうだと思う。

その講演会でもその要素の強い講師が多くて、私は安心したし、感覚も近かった。


次男のことが頭に浮かんだ。

この講師も言ってたけど、「自然」の中での学びが大事だ、と。

自然はウソをつかないし、本質が学べるのだと。

私も心当たりがあるし、次男にもそれが合っているように思う。


長男や三男にはタブレットでの学習が合う。

人を介さず、自分のペースでやれて、学びの多くが見えるからわかりやすい。


もうそれでいいじゃないかって思う。

安心できる空間で、自分のペースで学ぶ。

集団が合わないならそれでいいじゃないか、と。

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学校に適応させてあげられなかった罪悪感

結局のところ、何が苦しかったのかって言ったら、きっと

「子どもたちを学校に適応させてあげられなかった自分の親としてのスキルのなさと罪悪感」

なんじゃないかな。

周りの子たちはなんだかんだ楽しく友だち同士で遊んでいたり、トラブルが起きてもその中で解決して成長していく。

ところが我が子たちは必要以上に傷つき、エネルギーを減らして、学校に行けなくなってしまうわけで。


私の介入がもっと上手だったら?

安心できるようなことができたら?

と思ってしまう。


その罪悪感。

できてないって自ら思うから湧いてきてしまう「罪悪感」、これが厄介だと思う。


今は情報もあるし、支援施設や相談できる人も増えているから、そういったツールを使えば上手くできるはずなのにできない自分…みたいなベクトルで自分を責めてしまうとしんどい。


発達多様性の子たちは多くが大器晩成型で、子どものころは何かと問題に見えることが多いのは仕方なくて。

結局、親はそれをなんとかするよりも、なんとか付き合う気持ちでそばにいるくらいがちょうどいいんじゃないかなって思う。

じゃないと親だって息切れしちゃう。


もう難しく考えるのはやめ!

身の丈を知り、身の丈で生きる、それがシンプルで大切じゃないかな。

社会には適応するんじゃなくて、ほどほどに関わる。

頑張って合わせるんじゃなくて、必要なことだけ合わせる。


何か困ったことが起きたらそのときに対応すればよくて、わざわざ予測して動かない。

問題が起こってからでも遅くない。

だからのんびり構えてようよ、私。

子どもたちには、試行錯誤や困った経験をさせてあげよう。

うまくいかなかったね、どうしたらいいかなって一緒に考えていけばいいんだよ。

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