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子育ての苦しみの分析

先日、「母の考えは正しい」と無意識にからだに刻まれていた部分から解き放たれてから、私の子育てへの向き合い方はワクワクに満ちています。

心から嬉しい、楽しい、笑ってばかり!!

この記事は、私が母の影響で凝り固まり過ぎてしまった思考を柔軟にし、生きやすくするための思考の整理です。

影響されやすく思い込んだら一直線な私の性質と、想いが強くパワフルや頑張り屋の母との組み合わせの結果の葛藤なんですよね・・・やっと客観視できるようになり、子育てへの苦しみが減りました。

これも自分の成長の一つ。

誰かの思考の整理にも役に立てたら幸いです。


解放のきっかけ

下の記事にエピソードは書いたのですが、数日経ち、さらに思考が深まり、心が軽くなったのを感じます。

多分、子どもの危機での極度の緊張からの解放で思考が一時的にスッキリし、客観的に母の孫に対する言葉掛けを聞けたことが私の心に大きく響いたんだと思います。

それを前回の記事では捉え切れてなかったのだけど、日に日に変化を感じています。

思っているだけよりも、こうしてアウトプットするとより腹落ちする感じが強まるので、さらなる腹落ちを求めて記事にしようと思いました。


改めて思い直して考える、母の子育て


今思い返すと、母はより正しいこと、より良いことに貪欲でした。

より良くなるための努力は欠かせない人でしたし、それだけのパワフルさも持ち合わせていました。

そんなふうに常により良い未来を見通した動きの中で、今、目の前の人がどう感じ、どう考えるかをリアルタイムで思いやり、自分とは違う考えや感覚を持っていることを前提にすることは難しかったんだと思います。

母の理想像とこうあるべきという思い込みの強さ、やっと冷静に理解できた今は「まぁ、この人だから」と思えるけれど、それまで話はいつも平行線でした。

明け方まで話し続けることもありました。

その中で私はいつも「わかってもらえた」という感覚を得られたことはありませんでした。

もっとこんなことを言えば良かったのかな、わかってもらえたのかな、と悶々とする日々でした。

でも話せば話すほど、母の主張は輪郭がハッキリし、その想いの強さに影響されて、いつしかそういう考え方が正しいのだと思うようになりました。


そうして染み付いた母の考え方は、我が家の発達オリジナルな子どもたちの子育てには全く合わず、私の苦悩の日々が始まります。

その苦悩は療育センターや発達の勉強会で関わりの知識を得た後も変わりませんでした。

夫や子どもと自分との違い、似ているところ、それを感じながら自分探しを続けました。

自分がかなりわかってきて、ある程度自覚しながらの生活ができるようになっても、その苦悩は残りました。

何だろう。

普通に生活をしているだけなのに、何かあると苦しい気持ちがどこからかやってきて、涙があふれてしまうんです。

自分が悪いわけじゃない、子どもが悪いわけじゃない、現状、よくやっているじゃないか、そう思っているのに、それ以上の何か強い負の感情がやってきて、あっという間に自分の心を苦しみで一杯にしてしまう


解き放たれた今はその苦しみの理由がわかります。

母と私は違う、とわかったからです。


ずっと続いていた子育てにおける負のループの根源

実は子育てでうまくいかなかったとき、自己否定から母の否定に進み、母を否定すると似ている自分をさらに否定することになり、負のループに陥っていました。


どういうことかというと・・・

子育てでうまくいかないと、原因をつい探してしまい、私の考え方や対応がうまくできていないから、と考えていました

実際、子育てでうまくいかないなんてのは当たり前ですよね、子育てを初めからうまくできる人なんていないもの。

初めてで自分と相手は違う人間で、試行錯誤しながら、親も子どもも成長していくもんですよね。

でもそんな寛容的な考えには至らなかったので、うまくできない自分が悪い、そしてこんな私に育てたのは母だから、母のやり方がそもそも間違っていたんじゃないか、と考えたわけです。

母のやり方や考え方がダメ、と認識すると、自分の中に母と似たようなことがあるとさらにそういう自分をそれがダメ!と責めるようになりました

でもね、私の中の子育て像は自分の感覚や思い出にしかないんです、結局。

具体的なイメージで書き換えられるような体験を持てませんでした。(こう接するといいとか、先輩ママで憧れの接し方をしている人がいるとか)

療育での子どもへの声かけや関わり方、義母の息子たちへの関わり方でフワッと心地よい感じがあって、この感じは母にはなかったなぁと思うことはあって、人によってこんなにも感じが違うんだなとは薄々感じていましたが。

いいイメージで書き換えられないから、負のループ・・・今のやり方がダメだけど、どうすればいいかの建設的な考えなんてそこからは生まれてきませんでした。

唯一、母にも私にもない要素を夫が持っていて、子どもとの関係も良好だったので、それを得られれば何か変わるんじゃないか、と思って、自分否定+夫肯定の苦しい日々を送っていました・・・なんで自分をそんなに否定しちゃうんでしょうね。

多分、自分のやり方では結果が伴わないから・・・。

そんな葛藤を毎日の子育ての中でグルグルと考える日々。


結局ね、私が何を頑張ろうと子どもの発達段階に見合っていなければ、それを子どもが獲得するって難しかったりするんです。

子どもは子どもの神経発達段階、得意不得意、感覚的な好き嫌いといったその子らしさに合わせて成長していくもので、母親の提供した課題に合わせて成長するわけではないんですよね。

もちろん、母親の影響はものすごく受けるだろうし、その子に置かれた環境も大きく影響する・・・でもその子らしさがベースにあるんですよね。

そして母親自身の私らしさだってある。

「私と子どもは違うし、獲得のタイミングだってそれぞれ、私が願っていたり思っているようには動かない」

葛藤の中でいつしかこの結論に至りました。

ああ、スッキリ!となるかと思いきや、頭では理解しているのに、何か問題が起こるとモヤモヤし、母親の自分がダメだと勝手に自分で自分を責めてしまう、それは変わらなかったんです。

頭ではわかっているのに腹落ちしていない、無意識のところでは逆の動きが起きている、結局は葛藤から抜けられなかったんです。

葛藤の中でいろいろ学びましたし、思考回路の違う夫に話を聞いてもらったりもしてきました。

その度に「あ、そうか!そうなんだ!!」と一歩進めている気がするのに、また葛藤することがあると元のループに戻っているんです・・・不思議。

自分ダメ、の自分責めが大好きすぎちゃう(笑)

自分責めは自分を応援する私なりの防衛本能による反応だってわかっても、その防衛反応が何のために発動しているのかがわからない。

不思議でしょ?

それが先日の母の訪問時のやんちゃな次男への言葉掛けを聞いてハッとして

「私と母は違う!」

とハッキリ認識したとき、世界はガラッと変わったんです。


母との違いが罪悪感につながっていた感覚

自分の母親を「ちゃんとしている母親、スゴイ人、こういう母親を目指すべき」となんとなく認識していると、自分もそうならねばならないとか、その姿がいつの間にかプレッシャーになっていることってないですか?

母の場合、会うたびに私や子どもたちを値踏みするような、いい悪いでジャッジするような目線を私は感じていました。

ああ、私の今の行動は母にはよく映っていないだろうな、と感じることがよくありましたね。


例えば、母の口癖だった「妻は夫を立てるべき」、これはよくわかるのだけれど、母はそれが行きすぎて父の自立を奪っているような部分も感じたんですよね。

察して先に動く、みたいな。

それが妻の役割、みたいな。

最初は当たり前のようにそれをやりました。

子どもにもやっていました、つい。

癇癪を起こされたくない、イライラされたくない、失敗されたくない、そんな結果を避けたい私の勝手な思いからだと気づいた時からやめました。

それに、そういう母親の行動は依存的になるし、わかってもらって当たり前の精神では伝えること、能動的に動くことを消極的にさせるような気がしています。

だから、私は察して動きすぎることはしないし、自分のことはやって当たり前で、夫に対しても尊敬しているけれど自分で考えて動いて欲しいし、自分からやって欲しいと思っています。

だから何か困ったら自分でやるか頼んで欲しいという姿勢でいます。

でも母はそんな私の姿が冷たいとか、妻としての役割を全うしていないと感じるようです(背中で感じる)。


ここまでハッキリとした理屈があれば母の視線を追い出せるんですが、自分の中にないと追い返せない・・・それくらい母の視線、想い、こうなって欲しいとかこうすべきという想いは子どもに伝わるんですよね。

私は常にそういう姿勢だった母を小さい頃から常に感じているうちに、いつの間にか母の思いを背負って生きてきて、うまくいかないとちゃんと母の教えに従って生きていないからじゃないかとか、母とは違ってていいんだと思うことへの罪悪感を持っていたように思います。


やっと解き放たれた瞬間

次男に向かって母が

「カメ拾ってきて(でかいカメを先日拾ってきた)ママには迷惑かけているんでしょ」

「ママは優しいから言わないかもしれないけど」

「ここでやらなかったら何にもできない人間になっちゃうよ」

と話していた時、脅し入っているよなぁ、私が優しいってどこを見て勝手に判断しているんだろう、甘やかしているとでも言いたいのか、カメ拾ってきて迷惑とか思わなかったけどな・・・ホントにね、冷静に母を見ていて、私とは違うし、目指したい姿でもなかったってハッとしたんです。

なんか洗脳が解けたみたいな感覚。

私、多分ここにずっと縛られてたんだというのがわかりました。

苦しい気持ちが出てくるのをどうにかしたくて、子育ての考え方とか、具体的な対応策とか、ノウハウばかり追いかけたけど、目の前をよく見ること、自分の心を見つめること、そう自分の感覚を大切にすることも大事なんですね。


私は私らしくあっていい、子育てを笑って楽しんでいい、そんなのわかってたし、やろうと思ってたんです。

でも子どもたちの行動を見て母と同じようにジャッジする自分がいて、なんとかしなければ・・・と思う気持ちが止められませんでした。

でもそれを現役でやる母を見て、違う!と心から感じ、私はそれを目指していないとも思い、やっと決別できました。


日常の変化

家族との何気ない会話でも冗談が自然に出てくることってなくて、そんな自分に違和感を感じていたけれど、解放された今は冗談言い合う時間が楽しくて仕方ないんです。

切羽詰まっている状況になっても、ま、大丈夫と思えます。

今までいくら意識しても頑張ることをやめられなかったのに、気を抜くことが自然にできるようになりました。

スケジュールが空いていると、何かしなくちゃいけない焦燥感にかられてソワソワしてしまっていたのが、何にもない時間をゆっくり楽しめるようになりました。

そんなに影響されていたんだなぁ。

多分、この縛りがなかったら私は今の仕事には就けていなかったと思うくらい、自分のキャパ以上の生活をしてきました。

今の仕事が好きだから、縛りを全て悪者にはしたくないけれど、しんどかったなぁ。

でも不安が強かった私には必要なものだったのかもしれないなぁ。

もう必要ないって思えたから、このタイミングで手放せたのかなぁ。

うん、そう考えると元気になれそう。

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