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「この人にこれ言ったらなんか言われそう」感

人に何か聞こうと思って誰に聞こうか考えたとき、「この人にこれ言ったらなんか言われそう」と思って、言うのをやめたり、言われないような言葉を考えたりってことない?

逆に、この人に聞いてみようかなって人もいる。

私は前者(夫は後者)。

そんな雰囲気を醸し出してるらしいけどね、無意識なのよ。

今まで無自覚だった自分のアウトプットの仕方について、考察する記事。


私のコミュニケーションについて

私ね、あんまり考えずに発言できちゃう人で、言ってからの反応で違和感…という流れが多かった。

これって母親との会話が全て基準になっているから起こることなんだって、最近やっと気づいてね(そこから抜け出せてないあたり、まだ思春期なのかも?)。

私と母との会話のキャッチボールが特殊すぎて、世の中一般には全く通用しなかったんだけど、その事実さえ無自覚で。

そもそもフツーのコミュニケーションって何?

今さらなんだけど、わからなくなっちゃったりね(夫とのコミュニケーションで修正中)。


私と母の会話ってね、私が話すとそれ以上に母の意見や考えがバーーーッと返ってくる、それに反応して私も話す、さらに母から返ってくる。

これが私にとって当たり前のコミュニケーションだった。

ADHD同士ゆえの会話?

わからないけど、お互いにお互いの言葉に反応して、自分の中にあるものがあふれてくる感じ。

相手が聞きたいことを察して必要なことだけ話す、とかない。

お互いに話したいことを吐き出しているという感じ。


大体、子どもが親に話すときっていうのは、こうしてほしいとかこれを買ってほしいとかわかってほしいとかそういうことが多いと思う。

それが母の持論で反対されたり、母の想いばっかりが降ってきて、私はいつも消化不良だった。

だから、私は人にわかってもらいたいという気持ちを強く抱えつつも、それが叶うようなキャッチボールのコミュニケーションは学べずに成長したのかもしれない。


それを全て母のせいだとは思わないのね。

私は私で、学校での交友関係を元に学び直せばよかった話。

でもそういう視点がなかったし、コミュニケーションの上手な友だちから学ぶということもしなかった。

困ってることもあったはずだし、なんとなく違和感はあったけど、それがコミュニケーションにおけるこの部分!って分析には至らなかったのよね。


夫の、私とは全然違う世界の捉え方や自己認識の仕方を聞いてからはますます思う。

私は私なりの世界の捉え方で生きてきて、上手くいかないと思ったときには、自分の想いと自分の行動を客観視して捉え直すということを積み重ねてこられなかったんだって。

自分にできないから、他責に走ったこともあったよね。

理由もわからずただ、自分を責めて、叱咤激励しまくることも多かった。

コミュニケーションが下手だから、人に相談して考えを深めていくことも少なかったしね。

いや、相談はしてきたんだけど、問題解決のためのコミュニケーションが上手くなかったのよ。


今、客観視して思うのは、いろんな捉え方や考えは持っているけれど、アウトプットとしての行動や言動は母の影響を受けてつくられた学生時代のままだってこと。

言い分が強くて、やや責めるような言い方をしがちで、相手を黙らせるような話し方。

私はそれがすごく嫌いなのに、気がつくとそうなってる。

捉え方や考え方を変えるのは、こんなふうにnoteに自分の言葉を書いて、客観視して、捉え直すことで可能だった。

でも話し方を変えるのは、また別の意識が必要よね。

今は職場の同僚とのやりとりで試行錯誤をしてるけど、落ち込み方がハンパないからね。

まずは夫や子どもたち相手に練習してみようかな。


ちなみに仕事相手である患者さんとの会話は、仕事の中でかなり試行錯誤をした上で自分なりのスタンスができてるから、全然違うコミュニケーションの仕方で確立してるのよね。

新たに構築してきた自分なりのカタチだから、こっちは上手くいってるの。

この辺を少し深掘りしていくと自分の想いが見えてくるかも。


素でいると私は「話したくないな」って思える人

気づいたらね、夫や子どもたちは私に何か言おうとするとき、飲み込んだりためらうことが多くて。

なんでよって思って。

言ってみて?って言っても無理で。

じゃあ何にもリアクションしないって約束するから、言ってみてって言ってやっと出てくる、みたいな。


私の想いは

「話しやすい人でいたい」

「話すとほっこりできる人でありたい」

「話したいと思える人でいたい」

なのに。

その想いとは裏腹の、言葉を飲み込む姿にショックが隠せなかった。


私を信頼してもらってるというのは一緒にいて感じるのね。

こう、家族間に流れる空気感でさ。

でも、何か言おうとしてやめる、っていうのはそれとは違ってて。


「言おうと思ったけど、何か言われそうだからやめる」

そう言われたわけではなかったけど、そういう態度が気になって長男に聞いてみたら、ホントにそうだった。

夫は私へ話す言葉をかなり選んでいるように感じる。

次男は言われたくないからよね…ごまかすことが多い。


一緒に過ごしていて、特に何があるわけでもないし、雰囲気が悪いわけでもないんだけど、1体1のコミュニケーションはフラットではなさそう。

私に伝えることに少しハードルが高いような感じ。


ううーーーん。

そんなつもりはないんだけど、現実はそうらしい。

そして、歴代の職場でもその部分で何となく違和感がそれぞれあった。

職員とのコミュニケーションではいい感覚が得られることがあんまり多くなかったし、苦手感がずっとあった。

もっというと、私は仲良くしていきたいと思っているし、いろいろと相談しながらやっていきたいと思っているのに、そういう空気感で話が進まない感じ。

それは私の無意識な「責め口調」が原因なのかもしれない。

なんとなく確信に変わっていく。


夫や子どもたちに私の母の話し方について聞いてみた。

夫は言う。

「悪気はないのは伝わってくるけど、強いよね。

 反応に詰まる。距離を置きたくなる。」

やっぱりそうなんだ。

で、私はそう分析したことがないのよね。

観察力や分析力が弱かったからなのかもしれないけど、生まれたときからそれだから、その状態に適応するしかなかったのかもしれない。


そう考えながら、ハッとした。

私のコミュニケーションの強さは、この母の言い分に負けないための強さが根底にあるのかもしれないなって。

言っても言っても伝わらないし、わかってくれないから、もっと強く言う、みたいな。

強く言っても伝わらないから、キレ気味で話す、みたいな。

今の私からしたら、もっと頭を使ってよって思うけど、私も単純脳だからね。

夫みたいに、強く言われたりわかってもらえないなら「引く、距離を置く」ができたらよかった。

反応性が高い特性を持つ私には、なかなかできなかったんだと思うけど。


強く言われると引く、というのが大多数のようだよね。

今の職場でも思う。

私は強く言われたら、俄然闘志を燃やしてどんどん話せてしまう。

そういう人っているよね、うん。

熱いなぁって思うけど、私もそういうタイプ。

体育会系?

まぁ確かにその気はあるかも。


でも元々は内気で人の顔色を伺うタイプだったはず。

それが母とのコミュニケーションで鍛えられた結果、人を寄せつかせない強いアウトプットで周りが距離を置くようになっていたとは。

でも確かに。

私のメンタルってイジメに遭いやすいタイプだったんじゃないかと振り返ると思うんだけど、イジメに遭ったことはない。

母のおかげで発言が強かったからだろうなぁ、無意識だったけどさ。

言わせないオーラが伝わったんだろうね。

さらに父からはよくプロレス技をかけられていたから、男の子からのケンカにも強かった。

プロレス?

父なりの愛情表現と受け取ってたから、全然イヤじゃなくて、いつもどうやってこの技から抜けようって考えてたかな。

そう思うと私って、どんなことでも受けとめちゃうタイプだったのかもね。

いや、親だからかな。

子どもってそういうところあるもんね。

って思ってたけど、我が子はそんなことない、ちゃんと自分を持ってるの。

だから息子たちを見ていると、やっぱり私は受け身な子どもだったんだなってわかるよ。

親思いの優しい子…なはずだったけど、表面的にはめちゃくちゃ反抗的で何を伝えても言い返してくる生意気なタイプ。

わかってもらえなくて当然…か。


自分のアウトプットを分析

人から何かを言われたとき、どんな言葉で返そうかと言うことを、実は私、考えて発してなかったと思う。

今、こうして言葉にするために考えていてハッとしたけど。

で、ダメじゃんって思っちゃったけど。

いやね、ゼロじゃないのよ、そのはずよ。

相手がどんなことを言いたいと思っているのかは理解しようとしてるし、相手を想って精一杯応えたいと思ってる。

でもそこまでかも。

どんな言葉を選んで、どんな口調で、どんな態度で、どんなやりとりをしたいか、そういうことをイメージして話すとかしてない。

感覚的に、反射的に、反応してるだけ。

目的がなく、目の前で発された言葉にただただ反応しちゃってるのかもなぁ。


その行動って、無意識の部分が表に出てきやすいよね。

そう思った。

それなら、と、私が無意識に出している言葉の根底にどんな意味があるかを考えてみた。


「何も言われたくない」

そんな気持ちかも。


母にいろんな想いをぶつけたとき、アレコレ言われて、そんなこと言われたいんじゃないのに、そういう思いから「これ以上アレコレ言わないで」という想いを込めて、親に返事をしてた気がする。

親もその私からの言われ方には傷ついてたはずなんだ。

だけど母は母で、親としての責任を果たそうと母なりの「言うべき」を言葉にして返してきたんだと思う。

だけど、その会話は全然やりとりにはなってなかったはず。

お互いの想いをぶつけ合って、折り合い地点も見いだすことなく、感情の発散が終わり、時間とエネルギーの問題で強制終了という形が多かった気がする。

全く建設的ではないやりとりだった。

お互いに精一杯で、お互いに不器用だったんだね。


母のスタンスは決してマウントを取りにくるような、コントロールの強い感覚ではないと思う。

根底にあるのは「否定されたくない」という想いかもしれない。

それと同時に「自分を責める気持ち」も存在してると思う。

どこか自分を認められずにいて、だから否定されたくなくて、だけど自分にはいつも責めるような言い方をしてしまっているから、それが相手にも言葉となって現れてしまってる。

ホントは目の前の人といい関係を築きたいと思っていて、誰よりも相手のことを考えたいと気を配ってるつもりなんだけど、伝わってない。

母からイメージしたことをそのまま自分に合わせて振り返ってみても、納得できるなぁ。

私は無意識に自分を責めてるし、だからこそ、無意識に出てくる言葉が責めるような言い方になるのかもしれないよね。


感覚や感情、思考と行動の不一致なんだなぁ。

思ってることと行動が合ってないのよね。

だから心の中では関係をよくしたいと思ってるのに、その想いとは裏腹の「言われたくないという拒否的な」態度が伝わってしまい、ミスコミュニケーションにつながってる。

「言われたくない」から強い言葉になるし、感情はその言葉に乗る。

でも心の中では「何かあったら言ってほしいのに」と思ってる。

この矛盾!


自分でも訳のわからないところで矛盾が生じていて、人とのコミュニケーションに影響を及ぼしてる。

私は人から何か否定されることが怖くて、いつの間にか言わせないコミュニケーションをしてきてたのか。

根底にあるのは「自分で自分をを認められていないことからくる不安」なんだろうなぁ。

大丈夫!と思えれば、自然とコミュニケーションは変わるだろうか。

実際にnoteで自分を整えるたびに職場での職員間コミュニケーションは円滑さが増してきたようには思ってるのだけど。


目的に応じたコミュニケーションを

コミュニケーションってツールでしかなくて、その向こうには必ず目的があると思う。

目の前の人とどんな関係になりたいと思っているのか、どう考えているのか、何を伝えたいのか、何を知りたいのか。

私は基本的に、「心地よい時間が過ごせたらいい」と思っているのだけど、私が発した言葉の反応が心地よさとは逆方向へ向かったように思える瞬間があったりして。

コミュニケーションって難しいなぁと思ってた。


仕事相手の患者さんだと目的ってハッキリしていて、私は患者さんの身体能力を向上する手伝いをさせてもらう立場で、それが円滑に遂行できるような情報収集や運動指示、関係性構築のためにコミュニケーションを使ってる。

でも普段出会う人とのコミュニケーションって、目的がハッキリしないことが多いし、そもそも相手と自分の想いが違っていることも当たり前だったりして。

それなのに、私は自分の想いに忠実にグイグイ話しちゃうことも多いのよね。

別に悪くはないけど、それが私のやりたいことかっていうとちょっと違う。

ホントは相手のことも知りたいし、どんな距離感が最適かを探っていく間を大切にしたい。

だけど無言の間が怖かったりするし、まずは相手に「私は無害な人間よ、仲良くしたいと思ってるのよ」オーラを伝えたくて、つい明るい雰囲気をつくるために走ってしまったりする。

悪くはないと思うのよ。

ホントは反応が怖い人なのにさ、無鉄砲なのよね。

自分を大切にしつつ、相手との距離感や程よい感覚も大切にする、そういうやりとりの空気感というか、間を大切にしたいの。


仕事ではビジネスと割り切る部分と、心のやりとりを大切にしていい場面とのメリハリを意識して、気負いすぎないようにしよう。

気負い過ぎちゃうのは、きっと「ここまでやらないと私はダメ」って強迫的な想いが奥にあったりするのよね。

その小さな怯えてる自分には、

「大丈夫、どんな自分でも、どんな反応でも、自分の存在が否定されているわけではないよ」

と伝え続けよう。

そして、コミュニケーションをとることにも一歩引いてみて、「無理に話さなくてもいいよ」と自分の肩にポンポンしてあげよう。


ジブンゴトになった瞬間

実はここまでは言葉にしていて、下書きに残していたのね。

でも勇気が出なくて、投稿できなかった。

それがね、職場で私が相談したいことができたときに

「誰に話そうかな、どの人だったら必要な情報を得られつつ私の想いも加味した上で答えを導いてくれそうかな。」

と考えている自分に気づいたの。

で、いつも穏やかで相談してきた上司に相談したら、こっちの意見を聞くよりも先に答えを言われてしまいそうだなって思ったのね。

私には私の考え方があって否定はされたくないし、でも新しい考えや情報は知りたいという自分の中の想いにも気づいた。


今までは、無意識に相手を選んで話してたかもしれない。

しかも発する言葉を推敲せずに、ワーーッと話すだけ話してたかも。

でも、相談するときには相手選びもそうだけど、何を知りたいか、どんな答えがほしいのか、相手がわかりやすいようにシンプルに伝える必要があるよね。

そんなの昔から何度も言われてきたし、意識しているつもりだったけど、いざ話すときには想いが先行しやすかった自分のアウトプットのクセにも気づいた。

それは母の姿にも重なって、モヤモヤもしたの。


で、職場では気をつけて言葉を発するようにした。

すごく頭を使う。

習慣化するまで仕方ないね。


それと同時に。

私は今まで「言わせない圧力」で人に距離を置いてもらってた分、自分で自分を守るスタンスを育てられなかったのかもしれないって思った。

ものすごく無防備だと感じる。

今までそんな自分にも無頓着だったなぁ。

今日も子どもの薬をもらってきたのだけど、医師や薬剤師の何気ないひと言にグサリグサリと傷ついてしまう。

受けとっても、受け入れなければいいのに。


いい人になんかならなくていい。

少しぐらい牙を持ってたっていいのよ。

私は思ってる以上に周りに影響されるから。

そんなふうに自分に声をかけたくなった。


これからの行動

今回はコミュニケーションについて、深掘りするいい機会になったなって思う。

ただやることをやって毎日を過ごしていたら、こんなふうに深掘りする機会もなく、時間は流れていってしまうもの。

まだまだ言葉にするのは下手で、まとまりないし、話があっちこっち飛ぶんだけど、それでいいの、noteは仕事じゃないんだから。


今までは「上手く生きよう」と思ってたけど、今は「自分と上手く付き合っていく中で、ありふれた生活の積み重ねに、今日もよかったと思って眠りにつける毎日を送りたい」に変わってきた。

そのために大切にしたいのは人との関わりで、心地よい時間にするためのコミュニケーションって大事って思えるようになってきた。

コミュニケーションがめちゃくちゃ上手くなりたいわけじゃない。

だけど、自分の想いと行動にちゃんと一致感を感じて日々過ごしたい。


今までnoteでは捉え方に焦点を当てて考えることが多かったし、思考の修正も大切にしてきたけど、もう一歩進んでアウトプットである行動や言動にも目を向けていこうかなと思う。







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