【コメント募集】子育てで意識してること
今日書こうとしてる内容は、思考の整理だよなぁ…と携帯の画面に向かいながら、ぼーっとそんなことを考える。
今日に限らず、ここ数日の記事は全部そんな感じ。
誰かに伝えたいとか、誰かの役に立てたらいい、そんなところまで全然至っていない内容。
それなのに、なぜ私はみんなから見られるnoteに書いて投稿するんだろう。
今日の記事はそこから入ろうと思う。
私と深く向き合ってから、新しい試みにつなげる記事。
かすかに期待していること
私は最近、自分が周りの環境にものすごく影響を受け過ぎている、と感じるの。
いいことがあるとテンションが上がり、何でもできそうな気がする。
でも落ち込むようなことがあると、何にもやる気が起きなくなってしまう。
今、私を取り巻く環境は向かい風のようなもの。
本来ならやりがいを持って仕事でガツガツ働きたいけど、子育てとの両立ではどうにも難しい。
不測の事態に備え、責任を持つような仕事を避けたばかりに、いちばん苦手な「人に合わせる、人と同じことを淡々と行う」仕事が増えてしまった。
また、元々はマニュアルのようなものがあれば、実行するのは容易いタイプだから、現状のようなマニュアルのない発達オリジナルの子育てでは思うように動けず、思うような結果にもつながらず、モヤモヤしっぱなし。
同じことをコツコツ繰り返すことも苦手だから、毎日の家事もうまくいかないし、子どもの支度や持ち物などの3人分の管理、声かけなども上手くできない。
環境的には、どうしたって自信をなくしていく方に偏ってる。
その環境に影響されるものだから、どんどん自信をなくす一方なのは当たり前で。
そんな状況下で、私の心の根底にあるのはいつも「こんな自分を変えたい」なのだと思う。
でもきっと、変える必要があるのではなくて、この苦手な状況をいかにやり過ごすか、私らしく生活できるようにどうカスタマイズしていくか、じゃないのかな。
だけど、ひとりで考えていても埒があかない。
noteで投稿しようと思ったキッカケは、自分で自覚すること、夫に話すために思考を整理することだったのだけど、ネットに投稿しようと決めた最大の理由は新しい視点をもらいたい…なのかもしれないな、なんてちょっと気づいてきた。
それなら、そうやって公言して、どんどんいろんな意見をもらってもいいのかもしれないよね。
それまではコメントって書くのももらうのも怖くて。
ありがたいことに、優しいコメントばかりだったし、私のことを「この人はコメントは控えた方がいいタイプの人」っていう認識で読んでくださっている人もいらっしゃるかもしれないと感じることもあったり。
コメントって、私にとっては「良かれ」だったりするのだけど、返信を読んでアレ?って思うこともあって、人との価値観の違いや伝え方の難しさを実感してきたのよね。
多分、コメントを書く動機は、文章を読んで、この人にこの気持ちを伝えたいってそれだけだと思うんだけど、
だからもらった言葉は受け止めるだけで十分なのだと思うのだけど、
気持ちのお返しに必死になってしまったり、言葉のニュアンスに反応してザワザワしてしまったり、心が未熟な自分があらわになるようで情けなくなったりしてた。
私がこんなだから、私が発する言葉も影響させ過ぎないようにしなくては、反応しないような言葉を選ばなくちゃ…そうやってがんじがらめになると、素直な気持ちまで否定しなくてはならなかったり。
何でも良い…と言ったら、語弊があるけれど、最低限のマナーを守った中での表現の自由は大切にしたいよね。
そして、自分と他人の線引きはしっかりと意識していかないとよね。
さて、そんなふうな考えに至って、私らしくはないやり方なんだけど、ちょっとチャレンジしてみます。
今日の記事はコメント募集記事にしよう!
今日のテーマは子育てで意識してること
日ごろ意識しているって大きいのよね。
意識していると、それに関連する情報にはアンテナが敏感になるし、考える機会も増える。
だけど、私はそういう意識するものが人よりも狭くて深いから、あることに関しては深め過ぎていて、それ以外はトンチンカン、なんてことも多い。
ということで、私が今意識してること2点を説明して、それ以外の視点をコメントで意見いただけたら嬉しいと思っています。
こういうことって正解がないし、そういう視点もあるんだねって終われるからいいよね。
いろんな視点、待ってます!
私が今、子育てで意識してるのは「信頼関係を築く」ことと「社会性の学びと社会との関わりのバランス」だと思います。
信頼関係に関しては、過去記事をざっと眺めてもハッキリしてることで。
仕事でも子育てでも夫婦関係においても、私は相手から信頼されるための関係づくりということにかなり意識して生活してるのが、記事からは伝わると思う。
前職の整形外科クリニックでは、一部の患者さんとしっかりと関係を築いた上で治療を行えて、回復に導けた、という自負もある。
ただ、職場の人間関係においては、そうは上手くいかなくて。
うまくいかない場合の距離の置き方も未熟で。
また職場環境も狭くて密で逃げ場がなくて。
って脱線したけれど、うまくいくいかないにかかわらず、信頼関係を築く大切さや意識をすること、というのはどんなことでもベースにあると思ってる。
以前は私、誰かれ構わず関係を築こうと思ってしまっていたけど、今は選ぶ大切さも身に沁みてるよ。
そういう、築いていこうとする過程で気づくことっていっぱいあるのよね。
で、その中で感じてきたことは、まずは信頼関係を築けたという経験が、子どもでも大人でも、大切だってこと。
信頼できる安心感とか心地よさを肌で感じるということは、頭で理解しているのとは全然違うと思う。
あとはフツーなら言えないで黙っていたことを、この人には言ってもいいかな、聞いてもらえるかなって思えることの嬉しさとかね。
私は母とはないんだよねぇ。
話せないことがたくさんあったわけじゃないし、ものすごく嫌悪感があるわけでもない、そこそこの仲の良さというか分かり合える空気感もある。
信頼できないわけでもない。
でも頼れないね。
面倒だから。
そう、ちょっと面倒くさい人なのよ。
ああ、そっか、それだけね。
だけど、それがあるから、双方向のやりとりができないことが多くて、フラットな関係は難しいと思ってる。
私は仲良しを目指したいのではなくて、フラットな関係でいいのよ。
困ったなぁってときにお互いにSOS出せて助け合えたり、聞いてもらいたいことを聞き合ったり、生活に関連することは分担できるとか、そういうことがお互いに主体的にできる関係に憧れてる。
そのために、私はどんな人であればいいのかっていう自分のあり方を、最近では意識してるかなぁと思う。
もうひとつの「社会性」に関しては、発達特性や認知特性でどうしてもみんなと同じように「自然に体得」できないタイプの人間には、特に意識することが必要だと思ってる。
私がそうで。
私は振り返るとね、社会性に関してはやや弱いというか、意識できてなくて不十分で。
仕事での小さなトラブルはそこから派生してたんじゃないかな、と今なら思う。
それに気づいたキッカケというのは、お恥ずかしいことに子どもの療育を通して、社会で生きていくために必要な要素を理解し、子育ての軸を考え直す機会があったからで、自分の経験や判断が偏っている自覚がやっとできたの。
私の母や私は「個人」を大切にする子育て。それはとても大事だったのだけど、「社会性」の学びは弱く、自力で体得もできず、社会における失敗経験は結構多かった。
持ち前の雑草根性で、いまだに何とかなってるけれど、黒歴史だらけ。
社会のルールというものは、最低限知っておく必要があって、知った上で選択できるのが最適だと思う。
「社会性の学び」を軸に考えると、実は人との距離感もつかみやすいし、選択するための判断の中に「自分の考えや気持ち」を入れる練習にもなると思う。
私は今、情けないけれど、新しい職場でのモヤモヤを言語化し、夫に話す中で新しく社会性を学び直しているところ。
そうして得られた感覚で子育ての軸を微妙に修正し、最近やっと「自分を大切にしつつも社会性も考えられる」という視点で、子どもたちと接することができるようになった。
これはダメ!こうしなさい!という押し付けのようなものではなくて、社会におけるルールや多くの人が考えたり行動するであろうことを理解してもらうような感覚かな。
例えば、目立ちたくないなぁと思ったら、心までは変えなくてもいいけれど、表向きはみんなと同じ方が無難だろうし、どんな結果になっても自分の考えで行動したいと思えばある程度のリスクは背負う必要がある。
そういうさじ加減を自分でできるようになっていくことって、特にうちの息子たちの持つASD(自閉症スペクトラム)という特性には必要なことじゃないかな、と。
そもそも脳のタイプが違う少数派だから。
人とは優先したいことも選択することも違うことが多くて、人よりも苦痛が多くなるのよね。
だったら、社会と自分を知り、自分で選択していくことがいちばんダメージが少ないのでは?と思って。
私はそもそも脳のキャパが少ないし、それぞれ違う発達特性のある息子たちの子育てで必要と感じたことだから、この2つを選択したし、この2つで精一杯なのだけど、他の方々はどんな視点を持って日々生活してるのかなぁって気になる!
良かったら教えてくださいね。
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