ピラティスを習慣化していく上であふれてきた言葉
昨日の職場での昼休み。
ご飯食べて、歯磨きして、トイレに行って、休みの夫や子どもたちとLINEで会話して、残りの時間はコアにスイッチを入れるエクササイズをしてた。
以前はストレッチをして、体幹とお尻の筋肉を鍛える、ということをメインでやってきていて。
今は習ってる最中だから、コアにスイッチを入れて鍛えるピラティスを練習がてら、実践中。
実践しながら、自分にとってのカラダにいい習慣を模索していたりもする。
それを考えていくと、自分にとって大切にしたい部分も見えてくる。
それを言語化してみる。
私がエクササイズを習慣化したいわけ
お昼休み、治療ベッドにコロンと横になってコアにスイッチを入れ、呼吸。
正しい形があるから、その形を意識しつつ、呼吸とともにエクササイズ。
自分考案のストレッチと筋トレの組み合わせもなかなか良かったんだけど、ピラティスは断然姿勢が整う。
ピラティスで姿勢を整えつつ、お尻の筋肉を活性化していくのが、私の目指すスタイルに近づけると実感してる。
脊柱疾患(変形や骨折、神経症状の出現など)になっちゃうとエクササイズをするのにかなり制限を受けるようになってしまうから、今からが大事だなぁと思う。
45歳になったら、細かく骨密度を一回測った方がいいって聞く。
更年期に入って、ホルモンバランスの変化が骨密度に与える影響はかなり大きく、知らずうちにスカスカになり、70代以降に骨折してから気づく人だって多い(個人差あり)。
今は、骨密度を上げることが整形外科治療の一つの柱になっているよね。
私は「転ばないバランスと筋力を習得する」ことをひとつの目標に仕事をしてきたのだけど、ドクターは「転んでしまっても折れない骨を作る」ことが目標なんだと整形外科に勤務してわかった。
そして、何かが起こって医療にお世話になる前に、自分で予防する、カラダにいい習慣を作ることが大事だと感じて、今「予防医療」を学ぶようになったのよね。
日本は医療技術レベルが高いし、医療にかかるハードルも低いから、病気になったら医療にかかればいい、かかってから考える、というのが当たり前になってる部分がある。
医療があるから安心して日々を生活できるのだけど、いざとなったら医療で何とかなるでしょって無意識の安心感がある気がするのね。
実際には、病気にかかれば治ったとしても後遺症が残ったり、服薬が必要になったりする。
だから日頃から自分の身体や健康について考えておいて、健康的な習慣を心がけておけば、その積み重ねが健康への貯金になるよね、と私は考えてる。
ココロとカラダの健康を意識しておくって、健康なときにはなかなか難しいことではあるけれど、「こんなときはこんなふうに考えて、こんな心がけをしてる」というひとつのモデルを作りたい、そう思ってまずは自分なりの形を模索してるんだよね。
で、今はピラティスと統合医療を学び、取り入れていこうと実践中なの。
カラダとココロの軸
最近の私のnoteに頻発中の「カラダとココロの軸」のこと。
40歳になるまで、私は自分の軸があるようでなくて、「こうあるのが良い」という情報に惑わされ、世間一般の「良い」形を実現しようと努力してきたと思う。
だけど、こんなにも情報があふれるようになると、いろんな考え方があって、何がいいとか悪いとかは自分で決める必要が出てきて困ったのよ。
軸がないと振り回されるし、いいカモだって。
夫は軸をしっかりと持っていて、自分に必要ないことは取り入れないし、行動もしない。
すごくシンプル。
必要ないものに、家族や信頼できる人以外の人と関わること、もあったりして、私はモヤモヤしたのだけど、それくらい潔い方がシンプルなんだよね。
私は毎年律儀に関わりのあった人との年賀状交換を大切にしてきたのだけど、来た年賀状しか返さない(2〜3枚くらい)夫に影響されて、今年は来た年賀状しか返さなかったら、なんだかむなしさが残った。
手放すって難しい。
年賀状の交換が私の軸に近いことだったからむなしかったのか、ただ当たり前だったものがなくなったから一時的にむなしいだけなのか。
軸がハッキリしてないから、判断もできない。
私は自分の感覚よりも、世間一般の考えや目を気にして選択してきた人生だからさ。
自分がどうしたら嬉しいのかとか、手放すのが怖いのは人の目が気になるからなのか、その辺もよくよく自分と対話しないと見えてこない。
健康的な生活もさ、カラダだけに絞ったら栄養や運動、睡眠あたりの知識を身に付けて、自分の生活に落とし込んでいけばいいのかもしれないけど、そこにココロとか自分らしさを反映させようと思うと、より個別性が大事になってくるじゃない?
そこを人はどう判断してるかって、なかなか見える化してる人は少ない気がするのね。
数字とか結果ばかりで。
結果よりもプロセスよ。
これも先日記事にしたよね。
今のマイブームなのかも。
で、私はカラダの軸は姿勢を整えることで作られる気がするから、ピラティスを採用したいと思うし、ピラティスをしていない日常の生活のひとつひとつの動作にも、慣れてきたら応用していけると思ってる。
ココロの軸はジャーナリング。
とにかく書くこと。
意識は「いつでも自分を応援する」という気持ちを大切にすること。
最後は絶対に自分を応援することで締めくくりたいよね。
そのためには、自分で吐き出した気持ちや感情を
「私はこうしたかったんだよね。できなくて悲しかったよね。」
と理解してあげることが大事じゃないかな。
noteで叶えたいこと
noteを始めたばかりのときは、どちらかというとzoomで開催してた「みかんの朝トレ」の備忘録のためだった(今は削除してしまったけど)。
それが積み重なっていったら、朝トレ参加者も増えるかもしれないし、もしかしたら収益化も…なんて甘く考えてた。
でもそもそも続かなかったの。
予約システムの運用も、毎回のプログラム設定も、朝早く起きることも、実はハードルが高かった。
続けられたのは半年。
参加者の皆さんはめちゃくちゃいい人ばかりで、私は支えられてきたんだけど、その中で自分のしていることに自信が持てなかったのが最大の要因だった。
そのときは結果が大事だったし。
目の前の人の反応が自分のしていることの価値じゃないかと思い込んでたからね。
noteでは、そんな自分と向き合うことにした。
その中で私ができないのは知識やスキルが足りないのもあるかもしれないけど、そもそも軸がない、と気づいたのね。
私はこう生きていきたい!というやつ。
何か選択に迫られ、判断するときに「私はこう考えているから」がなくて、「家族のためを考えたら、将来を考えたら、周りの状況を加味したら」ばっかり。
よく考えてみたらね、「私だったら」って生きていく上でジャマだったのよね。
だって自分が強くなっちゃうと、周りと上手くいかなかったり、人の目が気になったんだもの。
自分が穏やかに生活するには、人の目を気にして生きていく方が余計な刺激がなく過ごせたんだよね。
でも私、勘違いしてたの。
生活全てをそうする必要はないんだって。
自分らしさを発揮していい場面だったり、時間だったりもあるわけで。
社会に出ているときは、自己主張と周りを見ることのバランスを大切にしながら、控えめにしていたらいいし、お家で過ごす中で大切にしている時間では、ちゃんと解放してあげるメリハリが大事よね。
なんかそういうさじ加減ができればいいんだなーと。
noteを書く時間は私の大切な自己主張の時間。
その自己主張を繰り返して、私なりの軸を見つけられたらって思って続けてきた。
ここ最近の投稿記事は、かなり意図的に「言葉にしたら自分の何かが変わる」と思って書いていて、導けた結論に、やっぱりそこが軸だよねって自分で納得できるようになってきた実感がある。
一時期は「誰か助けて」とか「誰か共感して」とか「誰か肯定して」という気持ちと、アンチな意見は傷つくという怖さを持ちながら、そんな自分を守るような書き方をしてたときもあった。
自分の結論を自分でなかなか肯定できなかった時期ね。
でもそれが自覚できたからこそ、次に進めて。
なら、強制的に自分を肯定しようと思って。
本当の意味で、自分にしかできないことだと思ったし。
私に必要なことは、自分のことを自分で肯定すること。
書くことで自分の能力のなさを自覚して、自分にできることでいいと言ってあげられたり。
頑張っても結果が出ないことに対しては、プロセスが大事とか、その頑張りが自分の肥やしになるとか、頑張りの中での気づきを大切にしようとか、視点も広がってきた。
自分を肯定することって、何をするにも前提にほしいよね。
つまりデフォルト設定なのよね。
ない人は新たにインストールするしかなくて、それは人に言われて気づくことは多くても、最終的には自分と向き合って、自分のものにしていくしかないと思ってる。
私はずっと、 noteでは「いいんだよ」って自分を肯定して励ましてきたけど、なかなか実生活では自分にいいよって言えなくて。
それは結果に左右されてたからなんだって、最近自覚できたことで、一気に世界が変わって。
そういう価値観の上書きみたいなものを、私はひとつひとつやれないと、自分の足では立てなかった。
それはいつも親や先生が言うことを鵜呑みにして努力してきて、中身がなかったからかもしれない、とも思えていて。
後からでいい、その中身をちゃんと自分の言葉で埋めてあげようってやっと思えて。
ううん、ないから埋めるじゃなくて、あるんだけど見えなくなってるから見えるように言葉にするって感じ。
今はココロとカラダの軸を自分なりにつくっていきながら、自分の中にあるものを見える化する作業を noteではしてるんだと思う。
それは勉強→就職→結婚→子育て、と慌ただしく目の前のことで精いっぱいだった私が、少し子どもたちのことにも見通しが持てるようになり、ココロと時間の余裕ができてきたからできること。
今までは、「成長の遅れ」と自分で考えていたけど、そんなことないよ。
そういうタイミングなんだ。
ダメって思わなくていいんだって、やっとね、思えるようになったかなぁ。
noteさまさま。
最近、夫がポツリポツリと言葉にしてくれる話からは、私にはないものをたくさん持っていて、バランスがいい夫でも、同じように「自分の存在価値」に関して思い悩むこともあるって知った。
私だけじゃなかったし、その感覚って自覚できてるかできてないかの違いもあるかもしれないと思った。
向き合うとわかる、どこでつまずいてるのか。
何のどこでこの人はモヤモヤしてるんだろうかって。
自分と向き合うためにnoteに言葉にしてる時間は結構多かったし、子育てや仕事に充てるべきじゃないかと悩んだりもしたけど、今ではそういう時間があってよかったと心から思う。
私は私のタイミングやスピードがある。
焦らなくていいし、目の前の現実を自分の評価に使わなくていい。
現実は現実、自分は自分、家族は家族。
そして、自分の気持ちや感情と思考も切り離す。
みんなつなげなくていい。
ただ、そのままそうなんだって思っていたらいい。
こうしてひとつひとつ整えていくと、次のステップを現実が教えてくれるから、それに流されてみるのもいい。
わからなくなったら、人の考えも参考にしてみていい。
自分の世界が広がり、その中で選び取ることを繰り返していけば、「私である」輪郭がハッキリしてきて…その先にあってほしいのは穏やかに生活できている自分。
5年前を10としたら、今は3くらいに穏やかになれているのだけど、何かあると8くらいまで揺れるから、ベース2〜3の振れ幅5くらいでいられたらいいかなぁ。
そんなつぶやきでした。
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