「それを言っちゃあ、おしまいよ」
今日、母の付添いで関東中央病院の整形外科へ行って来た。
足の痺れがひどくなっているために先日MRIを撮っていて、その結果と治療の方法などを聞くために私も同行したのだ。
予約の時間より更に一時間ほど待って診察室に通されたとき、医者はすでにパソコンに映し出された映像を見ながら「第二、第三頸椎の狭窄です。神経がこんな風に圧迫されています。その為に起こる足の痺れです」と、抑掦のない早口で言った。
医学知識に乏しい私が見ても分かる、要するに見たままのことを無表情で一気に説明した。
その早口な喋りの間を見計って、「それは、老化から起こっていることなのでしょうか」と、聞くと「人それぞれですから分かりません。若くてもなる人はなる。原因は分からないが〈結果〉がこうだということです」と、やはり無表情のまま早口で喋った。
患者が知りたいのは「どうすれば、この痛みや痺れから解放されるのか」ということ。その手引きが少しでも欲しくて、たとえ何時間待たされようが、たとえ年下の若造だろうが「先生、先生」と呼び、気を遣いながら縋るのだ。
やはり私も謙虚に聞いた。
「先生。結果がこうなのだということでしたら、その対処は?どうすれば母が少しでもラクになるでしょうか?」すると、その先生様は「薬を飲めば治るってもんじゃないんですよ。痺れが取れればノーベル賞もんです」と、何ともえらそうに言うではないか。
私が〈寅さん〉こと車寅次郎だったら言ってたね。
「あんた、それを言っちゃおしまいよ」
残念ながら寅さんじゃなかった私は、それでも日頃鍛えたよく通る声で、「そうですか! ノーベル賞ですか! はぁ、ノーベル賞ねぇ!」と、精一杯のイヤ味を口にした。
そして、「対処は無い、ということですね」と、念押しした。
「無いことはない。手術するとか。でも、全身麻酔をするわけですからリスクはあります」
「年齢的に……ですか?」
「年は関係ない。誰にだってリスクはあるでしょう!」
「この会話の間、その医師は、一度たりとも患者である母の顔を見ることはなかった。
そして、愕然とする私たちに
「ハイ。あとは紹介状をくれたご近所の○○先生と相談して下さい。MRIのCDロムと診断書を出します。待合室で待って下さい」
チャン、チャン。
よくある、大きな病院でのひとコマかも知れない。
この医師は、正しいことを言っていて、ある意味、とても正直なのだ。
でもだ! しかしだ!
その職業の人が、その立場で言ってはならないことってあるだろう。
私は「それを言っちゃあおしまいよ」という映画のセリフは「よく出来ているなぁ」と妙な感心をしてしまったくらいだ。
私も含めて、その道のプロフェッショナルたる者は、プロであるがゆえに知っていることがある。
それはある意味真実で、正しいこと。
でも、その正しいことだけを言葉にすると、とてもキケンな言葉に変わってしまう。
2014年12月発行のファンクラブ会報MFCエッセイ「心の中の旅」より
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?