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売るために作ったわけじゃない作品を売ることの意味(作品は商品じゃないのかも)

 こんばんは。ミサキです。

約1週間ぶりの更新。すっかり秋ですねぇ。暑さが天敵の実質かき氷な私にはとても心地の良い気温です。と思いきや、明日は最高気温29度とのことで、「夏、自粛しろ!」(最近の私的流行語大賞は「自粛」です)と明日の天気に向かって怒ってます。

 さて、今日は何を書くためにnoteを開いたのかというと。

先週私はこんな記事を書いていましたね。

 ある方から「ミジュツカの活動の最終的な目的って、作品が売れることでしょ?」と言われて、「うーーん、確かに目的の一つではあるけれど、それが大きな目的ではないんだよな・・・うーん・・・(夢でうなされる)」と脳内で鎖という鎖が頑固に絡まってしまったので、それらをほどくために上記の記事を書きました。

 んで、今日はそれについてもう少し考えたことを書こうかなあと。1週間しか経ってないので、先週と全く同じ内容になる可能性もありますが悪しからず。


 私は、美術作品というのは単に売買だけでとらえきれるようなものではない、と考えています。うまく言い表せないのだけれど、作品には売れたその前後の物語がある。

 売買の場では、作品は「商品」としての側面を強く打ち出します。しかし、それ以外の場面では作品は制作対象や鑑賞対象として存在します。あるいは、ただ存在するために存在する。

 制作の意図としても単に「売れる」ことのみが目的とされて作られているわけではありません。作品は(人によっては)人格を投げ出して作られていて、それが鑑賞されること、承認されることは作品のみならず作者までもが認められることになります。ざっくりいうと、承認欲求を満たすシステムの一端を担います。或いは、特定の思想・主義の啓蒙を目的としていたり、「推し」への愛を叫ぶためのものだったりもする。

 漫画やアニメ、グラフィックなどの商業美術、あるいは売って儲けることを目的として労働・制作された作品であれば、その制作の意図の中には「売れる」ことが含まれることが多いわけですが、そうでない作品には「売れる」という目的が入っていないこともあります。そうなると、「売れる」ことが目的ではないのになんで売ってるの、って思われるかもしれませんが。

 「売れる」ことが目的ではないのに売っている理由としては、承認欲求があるのではないかと私は考えています。「売れる」=「自分の作品を欲しいと思ってくれる人がいる」=「自分の作品、これまでの努力が認められた」とも受け取れるので。実際、私も作品が売れた時に「欲しいと思ってくれる人がいてうれしい!」という気持ちになりました。額縁に係ったお金とかそういうのが戻ってくることよりも、収入を得ることよりも、作品を欲しいと思ってくれる人がいることが嬉しかったです。

「譲る」とか「贈る」だと、作者の意思によって行われる能動的な行動になりますが、「売れる」は受動的な行為です。要するに、誰かが積極的に作品の価値を認めてくれたことになる。譲る、贈る、あげる、ではなく売れるということにはそんな意味があるのではないでしょうか。(異論は認めます)(これは美術作品に限った話ではないのかもしれない)

 作品が「売れる」のは商品だからですが、承認欲求が満たされるのは商品だからではないはずです。承認欲求が満たされるのは、「わたしがつくったもの」だから。この辺は、親が自分の子どもを誇らしく思ったり思わなかったりするのと近しい感情なのかもしれないですね(※子ども=親の作品と言っていいとはおもってません)。

 話がまとまらなくなっっちゃったので、この記事はここまでにします。

 また何か思いついたことがあったら書きますね。それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました!

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