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2022年ノルドカロットレーデン紀行#4 ~ 夏と冬、二度のクングスレーデン行②

 今回は、クングスレーデン紀行の後半。
 とうとうお待ちかねの冬のラップランドである。

北極圏での戦争とスキー

 せっかく記事を夏と冬に分割したので、本題に入る前に、クングスレーデンの舞台となるラップランドの地誌として、当地における近現代の戦史とスキーの関係を少し取り上げてみたい。
 クングスレーデンの北の起終点であるアビスコ(Abisko)周辺の山岳域は、隣国ノルウェーとの国境地帯であり、第二次世界大戦中、非常に軍事的緊張が高まった場所でもあるのだ。

ドイツ軍による北欧侵攻のルート。
一番上の赤矢印が、ナルヴィクへの侵攻ルートである。

 1940年4月、ナチス・ドイツを率いるヒトラーは、ヴェーザー演習作戦を発動して北欧侵攻を開始。
 その主目的は、スウェーデン・キルナ鉱山で産出する鉄鉱石の輸送ルートを確保することにあった。
 当時、ドイツは戦争に必要な鉄鉱石の輸入を中立国スウェーデンに頼っていたが、このキルナの鉄鉱石は冬の間、鉄路で国境を越えて隣国ノルウェー(これまた中立国)の不凍港・ナルヴィクへと運ばれ、海路でドイツに輸出されるという経路を辿っていた。
 このため、ノルウェーは英仏とドイツ双方から様々な干渉を受けた末、遂にドイツが領内に侵攻。
 ナルヴィクはドイツ軍に占領され、この北極圏の小さな港町を取り囲むフィヨルドと山々が、ドイツ軍とノルウェー軍・連合軍との間の二か月に渡る戦闘の舞台となった。
 世に有名なナルヴィクの戦いである。

 こうなると気が気でないのが、隣国スウェーデンだ。
 リクスグレンセン(Riksgränsen:「国境」の意)を一歩踏み越えた目と鼻の先で、ドイツ軍と連合軍が戦いを繰り広げているのである。
 この国境一帯の山々には当時スウェーデン軍が駐屯していなかったため、スウェーデン政府は大慌てで部隊を展開させ、国境防衛に乗り出すことになる。
 その最前線の拠点となったのが、鉱石鉄道の路線上でスウェーデン領側に位置しており、クングスレーデンの北端でもあるアビスコだったのである。

ナルヴィク撮影とされる、フランス軍(バッテン背負い)とノルウェー軍(肩担ぎ)の兵士。
スキーは北極圏の戦いの必需品だった
国境パトロールを行うスウェーデン軍部隊。
山岳部隊であるラップランド猟兵の沿革を伝える活動報告書。
以上、撮影資料はアビスコ国境防衛博物館(Gränsförsvarsmuseum)より

 結局、連合軍の撤退によってノルウェーは終戦までドイツの占領下に置かれることになるが、その間スウェーデンはさまざまな圧力に晒されながらも中立を貫き、戦争を回避することに成功した。
 前回、トレイル上に落ちていたスウェーデン軍スキーの破片の写真を載せたが、スウェーデン軍が今も続く国境地帯での山岳行進(Fjällmarsch:フィエールマルシュ)を恒例行事として行うようになったのには、このような歴史的発端がある。
 アビスコ周辺の山小屋も、この時に開設された軍のアウトポストを起源に持つものが多い。
 今でこそ平和的なトレッキングで賑わうラップランドの山々は、過去の戦争やスキーの記憶が深く刻み込まれた土地なのだ。

 つまり、一体何が言いたいか。
 冬のラップランドをスキーで縦走することは、憧れのスウェーデン軍に近づくための究極の行為である。
 
この期に及んで、自分の山の根底にあるものはごっこ遊びなのだ。

冬のクングスレーデン行

 今度は真冬の北欧の山を味わうことが目的なので、初冬や残雪期のような半端な時期には行きたくない。
 だが年明けの余りに早い時期に行ってしまうと、今度は一日中太陽が昇らない極夜の影響を引きずっていて、まともに行動できないだろう。
 そこで春分に近く、まだぎりぎり厳冬期の寒さが残っていると予想される3月頭にねらいを定めた。

赤が前回夏に歩いたルートで、青が今回冬に歩いたルート。

 夏の偵察で土地勘は得たとはいえ、冬の北極圏の寒さは未体験である。
 このため、今回の行程はアビスコ→ニッカルオクタ(Nikkaluokta)の約110km、日数も約一週間という、少し控えめな計画にした。
 後から振り返ってみれば、これが絶妙な判断だった。

日本から持ってきたスキーと橇。
スキーは、遂にプラ靴&山スキーから長距離向きの革靴&ウロコ板に進化(退化?)した。

 アビスコに降り立つと、スキーを履き、橇の紐を腰に繋いで入山。
 夏に北上してきたクングスレーデンを、今度は南下コースで辿っていく。

冬のトレイルは、夏は湖や川だった氷上を真っすぐに突っ切っていく。
赤バッテンを頼りに、白い世界をひたすら進む

 ツンドラの大地は森林限界より高い環境にあり、吹きさらしのため雪は風で飛ばされてしまい、積雪は決して多くない。
 日本のようなラッセルはほとんどなく、正直ツボ足で歩けるところも多いが、スキーだと一歩一歩が抵抗なく前に滑り出していくので、効率的で、しかも楽しい。
 結果、一日に進める距離は夏とほぼ変わらないことが判明。
 この地でスキーが発達した理由がよく分かった。

 天候も、目まぐるしく変化する日本の山に比べると大味な感じがした。
 晴れの日はずっと晴れているし、ガスの日はひたすらガス。
 風の日は一日中風が吹いている。
 Youtubeの動画などを見ているとブリザードの日もあるはずなのだが、幸いこの遠征では遭遇せず、停滞日を使用することは無かった。
 ちなみに、日の長さもこの時期は春分が近く、思った通り日本とほとんど違和感が無く過ごせた。

北極圏の寒さに打ちのめされた一週間

 この旅を通して一番堪えたのは、やはり寒さだった。

ぱりぱりに凍り付いた-25℃の朝

 入山二日目の朝。気温が-12℃に冷えた。
 これなら日本の冬山でもありふれた気温だ。
 だが「案外大したことないのか?」なんて舐めたことを思っていたら、ラップランドの神様に思い切り冷たい吐息を吹きかけられた。
 このあと下山するまで、この数値より外気温が高くならなかったのだ。
 平均気温は、ちょうど-20℃くらい。
 最低気温は、手元の温度計で-31℃になった。

テント内でこの気温

 北海道の冬山でも、-30℃を下回ることはそうそうない。
 これまで日本基準で構築してきた自分の冬山装備の、防寒性能の限界を越える寒さだった。
 数日ならば、耐えられる。
 夜間も寒さを感じつつも眠ることが出来た。
 だがこの冷凍庫のような環境で連日過ごしていると、日を追うごとに、身体の芯に蓄えられている熱量が少なくなっていくことが実感として分かった。
 この熱量が一定を下回った時、それが即ち凍死になるのだろうという確信めいた予感。
 寒冷に、じわじわと殺されていく感覚。
 元々組んでいた行程が一週間だから良かったものの、もし二週間だったら、生還できていた自信がない。
 この状況では、一ミリたりとも熱を逃がしたくない。
 おかげで夜は寝袋から出ることが出来ず、オーロラを見るという密かな野望も儚く吹き飛んだ。

谷の中を、常に風が通っている

 もう一つ堪えたのが、である。
 日本の冬山の風には呼吸があって、しばらく突風が吹くと一瞬止まり、また突風が吹くという、緩急が必ずある。
 吹きさらしの稜線部では、この弱点を突いて進んでいく。
 行動できなければ、岩陰や雪洞などに隠れてやり過ごすこともできる。

 対して、北欧の冬山の風は質量を持った津波のようだ。
 一度潮位が上がると、それがずっと一定の速度で持続する。
 しかもだだっ広い雪原では、それを避ける術がない。
 外気温が-20℃を下回った状態で、風上が進行方向になると、目出帽を付けていても顔が痛すぎて、まともに前に進めなくなってしまった。
 この風を受け続けることを前提とした装備を用意しなければいけなかったのだ。

それでも美しい、厳冬期のラップランドの世界

 この景色は、寒さと仲良くなった人間のみが味わえる特権だった。

この環境を楽しむクレイジーな人たちと、そのための仕組み

 さんざん極限状況での生命の危機を煽るようなことを書いた後だが、このクングスレーデン行には、実は常に保険が用意されていた。
 夏に比べれば圧倒的に少ないものの、トレイル上に常に人の気配があったのだ。

 まず、この季節のハイカーのために山小屋がすでに営業を始めていた
 これは現地に行ってみて初めて知った。
 山小屋への物資輸送のスノーモービルが谷の中を走っていたし、警察のヘリも、ハイカーを見守るように上空を行ったり来たりしていた。

 さらに、犬ぞり軍団。
 小屋泊まりのツアーらしく、酷寒の谷の中をものともせず爆走していく。
 犬ぞりの移動効率は圧倒的で、毎日こちらとほぼ同じ行程を、ずっと後から追い抜いていき、先に目的地に着かれてしまう。
 犬ぞりには犬ぞりの苦労があるだろうが、彼らを見ていると、重い橇を曳いてテクテク歩いている自分が段々腹立たしくなってくる。

 そしてもちろん、普通のハイカーもいる。
 一週間を通じて出会ったのは、15人ほどだろうか。
 ほとんどは橇を曳いている。
 使っているスキーの種類は、基本はBCクロカンだが、普通のクロカンや山スキーも居て、歩ければなんでも良いといった感じ。
 年季の入ったテレマーク革靴を使うおばさまもいた。
 日本では亜流でしかないソフトブーツの歩くスキーが、ここでは主流である。

 特にお世話になった、というか迷惑をかけてしまったのが、このフィンランド人のパーティ。
 使っている装備がとりわけ粗末で、北欧人のバンカラ精神を象徴するような人たちだった。

 履いていたのは、見るもボロボロなフィンランド軍の放出品スキー。
 束ねるため?と思われるダクトテープすら貼り付けられたままだ。
 これには、さすがに呆れた。
 戦前の登山家・大島亮吉が述べたバドミントン・スタイル()()を地で行くような恰好である。
 道具に対する虚飾を徹底的に排除すると、ここまでになれるのかというある種の感動さえあった。
 単に貧乏なだけかもしれないが、山屋というのはみんな貧乏だ。

 最後に、この遠征で起きた一つのアクシデントを書いておこう。

 先ほど自分は、フィン人パーティに迷惑をかけてしまった、と書いた。
 実は彼らと出会った日、なんとなくだるく、身体が動かなかったのだ。
 最初は単なる疲れだと思い込もうとしたが、身体ははっきり風邪だと言っていた。

 せっかく念願の遠征を実現しているのに、風邪で敗退なんてありえない。
 まだ序盤だったので、自分の心はこのまま遠征を続行するか、来た道を引き返すかで揺れていた。
 そんなとき、たまたま出会った彼らの「How are you?」に「ちょっと風邪っぽいかも」とばか正直に答えてしまったのだ。

 すぐさま「インフルか?インフルだろ?」と心配し始めるフィン人たち。
 慌てて「大丈夫。一晩休めば治るだろうから」と返すものの、彼らの不安は収まらない。
 当たり前だ。
 見慣れないアジア人の単独行者が北極圏の山中で体調不良を訴えていたら、誰だって心配する。

 その場は大丈夫、で強引に別れたが、驚いたのは翌日である。
 朝、テントの中でまどろんでいたらヘリの爆音が近づいてきたのである。
 テントを開けると、すぐそばに着陸したスウェーデン警察のヘリコプターから、下界と同じ格好の女性警察官が真っすぐこちらに向かってくる。
 テントの前で膝を付いた金髪碧眼のお姉さんは、身支度もできずに寝袋から上半身だけ出すという無様を晒すこちらに対し、終始ニコニコしながら、
「小屋からの通報で来ました。体調はどうですか?」
 という。
 あのパーティが、山小屋経由でこちらのことを連絡したとのことだった。
 大事になってしまった、と思った。

あっという間に飛び去って行ったヘリコプター

 一晩ぐっすり寝たところ、偽りなく体調は回復していた。
「軽い風邪でしたから。本当にもう大丈夫です。私は山行を続行したいです」と繰り返す自分。
 するとお姉さんは、それ以上引き留めることはなく、
「分かりました。では引き続きお気をつけて!」
 といって、嫌な顔一つせず再びヘリで去って行ってしまった。
 ヨーロッパらしい、からりとした対応だった。

 こうして、迷惑なお騒がせアジア人になってしまった自分は、その後フィン人パーティと小屋の主人にきちんと詫びの挨拶を入れ、山行を続けた。
 今となっては笑い話だが、クングスレーデンは、真冬であってもたくさんのハイカーが往来するスウェーデン山岳の表銀座のような場所である。
 一見なにもない大自然に見えても、いざというときの体制がきちんと整備された、管理空間なのだということを実感した出来事だった。

遠征の教訓

下山後に滞在したキルナの町

 一週間の旅を終えた結果、防寒対策(と体調管理)以外は、概ね問題なかった。
 冬のラップランドの極寒に打ち克つには、二つの対策が考えられた。
 一つは防寒装備の拡充。
 日本の冬山装備よりも一段階レベルの高い装備で、身体の熱を徹底的に保温する。
 もう一つは食糧、すなわち摂取カロリーの増強。
 ノルウェー軍のレーションは一日7,000kcalという(真偽不明の)話がある。
 防寒対策で身体の熱を逃がさないだけでなく、その熱が作られるエネルギー源そのものを増やすことも必須だ。

 防寒着や食糧は、日本の冬山装備では軽量化のために真っ先に切り詰められる品目である。
 だが、極地遠征ではそうした痩せ我慢は禁物なのだ。
 幸い、ラップランドでは橇が使えるので、背負うだけでは不可能な量の荷物を運ぶことが出来る。
 これが、長期の極地遠征において橇が必須な理由の一つだということも分かった。

 北欧の冬山は、詰め将棋だ。
 山岳地帯とはいえ、常に地の底を這って移動しているだけなので、アルパインのように何か判断をミスったらその場で即死する、というような危険は無い。
 だが、想定や準備が不十分なまま臨むと、気付いた時には手遅れになっている。
 だから、予測される事態を先の先まで予測して、手筈を考え、事前に対策を打っておく。
 寒冷との頭脳戦。
 これが、山岳(アルパイン)と極地(ポーラー)の差なのではないか、と感じたのだった。

おわりに

帰りの飛行機の窓から眺める、今回歩いて来た山々

 冬のクングスレーデン行は、人生でも指折りの鮮烈な体験だった。
 あの命を削るような寒さの中で過ごした経験が、自分を新しく規定しなおしてしまった。
 寒さに立ち向かうということが、とてつもなくエキサイティングな経験だったのだ。
 反省点は数えきれないほどあったが、-20℃以下の環境で大過なく一週間を過ごし切った事実は、冬山経験の上でも大きな自信になった。
 帰国後に自分の胸に残っていたのは、もうこりごり、という後悔ではなく、これを克服するにはどうすれば良いのだろう? という次なる探求心だった。
 人生は、-20℃を下回ってからが本番だ。
 次は、万全の装備を整えて、より長期の旅に再挑戦しよう。
 この決意が、2022年のノルドカロットレーデン遠征に繋がっていくことになる。

 しかしこの後、世界はコロナウイルスという感染症の禍によって世紀の大混乱に陥ってしまう。
 その煽りも受けて、この後、北欧通いは数年間の中断をみることになる。

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