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老いる人、老いない人ー新しい考え方を受容する柔軟性

養老孟司氏による落合陽一氏の新著「半歩先を読む思考法」の書評がすばらしく、落合氏の新書を読みたくなったのはもちろんだが、それ以上に、現在83歳になる重鎮の養老氏が、下記のように述べていたのが非常に印象的だった。

落合陽一の著作がまさに想定外で、読むと自分が歳をとった、まさに時代遅れだと確信する結果になる。数年前に学生から「養老さんは死んだと思ってました」といわれたときは、いわば想定内だから、別に何とも思わなかった。

「時代遅れだと確信する」。新しい考え方を受容する柔軟性があるか否か。

少し前の森喜朗元首相による時代錯誤な発言。また、最近の張本勲氏によるまたまた「お願いですから、引退してください」と言いたくなってしまうような発言。

このお二人に共通しているのは、新しい考え方の本質を理解し、受容する柔軟性が欠如しているという点だと思う。それこそが、老いるということなのではないかと思う。

たまたま例に出したのはみな80代の輝かしい過去の栄光がある男性陣だが、この受容する柔軟さについては、年齢は関係ないと考えている。

たとえ、30代や40代でも、新しいものに出会ったときに、理解しようとせず、「自分には関係ない」とか、拒絶反応しか示せなくなってしまったら、その時が老いてしまったときなのではないかと思う。

この書評の中で、養老氏が下記のように述べている部分がある。

「質量のない自然」という表現はいわば「質量のある自然」を扱うことが「科学」だという私の思い込みを訂正してくれた。NHKで「脳と心」という番組に参加した時の前提には、脳と心というデカルト式の切断は意識されていたが、それを「質量のない自然」という表現で切るところまでには思い至っていなかった。当時それに思い当っていれば、じつにさまざまな面で違う表現が可能だったのに、といまさらながら思う。心もAIも「質量のない自然」として一括されうる。

「質量のない自然」。

これ、分かったようで、私にはまだ分からない部分。もう少し勉強が必要だと感じた書評でした。

そして、養老氏の”想定を超えさせた” 落合氏の「半歩先を読む思考法」。これは必須で読まねばと思いました。


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