拝啓、ViVi編集部様〜ファッションとポピュリズム への考察〜
最近めっきり怒ることが減った。
エネルギーが勿体ない、別に怒っても意味がない、それぞれの正義がある、おおかたそんな理由だ。
だけど、久しぶりに怒り、という感情をもった。
こんなTweetがタイムラインに流れてきて、「何言ってんだ」という気持ちがふつふつと沸いてきた。
わたしはおおよそ、2014年〜2017年頃にかけて、この赤文字系雑誌ViViの愛読者のひとりだった。毎月の企画を楽しみにして発売日の23日を待ち、そして何よりちょっと個性的で海外セレブを感じさせるファッションテイストを好み、何度もコーディネートを真似した、そんなひとりの読者だった。
ViViはひとことでいうと、「モードで個性的な女子のための雑誌」である。他の雑誌に比べると、明らかにターゲットとしている層が「モード・カルチャー系」なのは明らかで、美大の近くをウロウロするとViVi的コーデが多く観測される、そんな雑誌だ。「定型オシャレ」ではなく、自己表現としてのファッションを応援する、「個性派オシャレ」なマインド溢れる雑誌からだった。だから大好きだった。
拝啓、ViVi編集部様。
ファッションの意味についていつも考えさせられる誌面、何よりそのモードでクール、個性的な企画、たのしみにしています。でも今回、若い女性を対象にしたコンテンツメイキングの側として、少しだけ、聞いてほしいことがあります。二度とこんな、めちゃめちゃにセンスのないPR戦略を取らないでください、いつまでも、読みたいと、カッコいいな真似したいなと思わせられる、そんな雑誌の作り手でいてください。
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改めて、この企画のどこにわたしが怒っているのかを因数分解したい。
まずそのコピーを見てみたい。
①「わたしたちの時代がやってくる」
確かにそうかも。2019年の改元、令和という時代の担い手になるのは、まさにViVi読者層の10代後半から20代。それはまちがいない。権利平等、文化共生、動物保護、まあこれからを象徴するようなイデオロギーだ。
②「みんなどんな世の中にしたい?」
それぞれあっていいよね、という気持ちだ。リンク先には、Diversity、Express yourself、Don't judge a book by its coverなど、わりと「ViViっぽい」コピーが並ぶ。これ自体は悪くないし、なんならいいと思う。こういうメッセージ性の強いキャッチーなTシャツは、数年前からトレンドのひとつとなり、Diorなんかがその先頭に立っている。それに乗っかるのは、まあ、よい。いくつかのブランドのコレクションのつくるトレンドに乗っかる、それが現代ファッションのあり方だ。
(ちなみに今期のDiorの新作は、「なぜ女性の優れたアーティストはこれまでいなかったのか?」というゴリゴリフェミニズム、なスローガンで出している。シビれるぅ)
③それでいて、なんだこの、「#自民党2019 (中略)をつけてツイートすると、」というのは。
自民党的要素がどこにあったのか教えてくれ。
確実にどこにもない。関係なすぎるだろ。(強いて言うなら改元なのか?)
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ファッションとは、と考えさせられるのだ。
わたしにとって、ファッションは、あくまで自己表現を強化するためのツールだった。
「今日はロマンチックなデータだから花柄のスカートにしよ、あーでもそれだと乙女すぎるかな」
「絶対に負けられへん交渉するからレザージャケット着てこ、ほんでオールブラックにしよ、強くあるぞ」
「わたしらしいファッションってビビッドカラーに派手なビジューよなぁ、それでいいよなぁ」
そんな想いとともに、服を纏っている。
程度の差こそあれ、多くの現代人にはおそらく通用する感覚だと思う。ファッションは現代において、ただの生活ツールとしての「衣服」の役割を超えて、自己表現のためのコンテンツへと変化した。日々のファッションにおいてTPOなんかが重視されていることと根底は同じ。ファッションは、自己を環境へと適応させること、或いは環境から一歩抜け出すこと、その環境とコミニュケーションという人間の営みの一部になっているのだ。
(それを生み強化したのは20世紀前半のフランスファッション界で、Diorや Saint Laurentがつくったその波は緩やかにだが少しずつ「ゆとりのある国」へと広がり、いまや世界を支配している。)
さて、そんな現代ファッションの役割をそれたらしめたのは、いかんせんファッション誌だったのだ。Vogueのような世界的雑誌から、小学生対象のピチレモンまで、ファッション誌は「なりたい世界観を実現する方法」をひとつのフィクションとして、それでも現実に接続する形で、提供し続けている。
(各誌共通の「着まわしコーデ企画」なんかはその典型で、現実とのリンクを際立たせながら環境適応へのツールとしてのファッションを体現している)
ゆえにファッション誌の役割は、「個性」を謳いながらも受け手にとっては没個性的、あくまで環境へと自己を適応させるものとしての意味合いの強いものへと変化している。
つまりはポピュリズムとの相性が非常にいいものになっている、というわけだ。
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一方で政治の文脈はわかりやすい。
民主制において、政治家にとってのインセンティブは「次の選挙に当選すること」、政党にとっての利益は「議席を増やし、政策を実現すること」であるので、一番欲しいものは「大衆の票」。
つまり民主主義は、ともすればポピュリズムという毒がすぐに蔓延しうるシステムなのだ。そして確証バイアスの強化が当然であるSNSの浸透は、その流れを加速させ、いまや世界で大衆迎合的な衆愚政治が広まりつつある。
(ただ自由民主主義の上位互換となりうるイデオロギーや政治システムは開発されていないのでベターとしての民主制が多くの国でキープされている)
(世界的な衆愚政治の広がりというのはあくまで個人の考えであり、あくまでわたしの立場から私見でしかない)
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ここまでを足すと、今回の企画が必然的に生まれたものであることは理解はできる。
#自民党2019 がそのタッグの相手として講談社という出版社からViViという雑誌を選んだのは納得なのだ。まず出版最大手である講談社の雑誌が読者が多いのは明白だ。そして、ViViは女性誌の中でも18〜22歳程度を想定している雑誌であるため、いまいちばん票を集めたい「若い女性有権者」のターゲットとしては最適だ。その中でもモード系の個性を重視するアーティスト気質の読者は、「SNSシェアする」ことに慣れている、そんな風潮はある。だからひとつの企画が相乗効果で宣伝力を持つ、それはそうなのだ。
だから2019年夏の参院選の票集めのためにターゲットにされたのがViViだったのだろう。それはわかる。
でも、と思うのだ。
現代ファッションの歴史を考えたとき、そのコンテンツメイキングの側は、いつも既得権益や社会の常識に対して「No」を突きつけてきた、そんな歴史があるのではないか。ファッションを提供する側は権力に迎合することを美学としてこなかったのではないか。そして何よりViViは、「自分のスタイル」という、常識に囚われないあり方を美学としてきた、そんな誌面を作っていたはずではないか。
だったら、特定の政党を支持したり、その表現集めに加担するような企画は、あってはならなかったはずなのだ。そして、願わくば、編集部内で、こんな企画、潰されているべきだったのだ。それがファッションの作り手としての美学であるはずで、そのポリシーに迷いなどあってはならないはずなのだ。
そして勿論、政治の側はファッションを利用してはならないはずなのだ。そんな小手先で票を稼ぐな、若者票、女性票がほしければ、まともな政策を打ち出し、それで得票する、そうあるべきではないのか。そして何より、こんな企画で特定政党の票が伸びると踏んでいるすれば、それはまさに民主主義への冒頭であり、民衆を舐めるのもいいかげんにせえよ、と言いたくなってしまうのである。
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