「すべてには時がある」眠れない夜のための大切な1冊
あたたかくなったり、少し寒くなったり、行きつ戻りつの毎日。
私が住んでいるところでは、ここ数日、住んでいる集合住宅の周りに植木屋さんが来て、剪定作業をしています。
駐車場の一角にある桜の木も、細かい枝をばっさり落としました。
ずいぶんさっぱりしたなあと見上げつつ帰宅して、階段の下を見たら、桜のほそい枝がふんわりと積んであります。
近づいて見ると、色づきはじめた蕾があちこちに。
水に挿しておけば、花が咲きそうです。
「よかったらお持ちください」という植木屋さんの配慮だな、と思い、ひと枝いただいて花瓶に生けました。
夕暮れどきに階段を通りかかったら、まだたくさん枝が残っています。
明日になったら、きっとほかの枝と一緒に処分されてしまう。
もったいないけれど、もうすぐ引っ越しだしなあ…と後ろ髪をひかれながら帰宅。
だけど夜になって、暗闇の中で、小さな蕾たちが静かに佇んでいると思ったらいたたまれなくなり、パジャマの上に上着を着て、両腕にいっぱい、抱えられるだけ連れてきました。
家にある一番大きなバケツに水を張って、とりあえず渇きを癒やしてもらうことに。
引っ越しまでに咲くかな。どうかな。
花を待ちわびるこの時間が、樹木や大地からの贈りもの。
少しでも快適な余生を、わが家で過ごしてもらえたらいいな。
何日か前、深夜に大きな地震がありましたね。
あなたの街は、大丈夫でしたか?
わが家は無事だったのですが、揺れで目がさめて、眠れなくなってしまいました。
そこで手に取ったのが『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』という一冊です。
コヘレトの言葉は、旧約聖書の中にある一編です。
すこし前、ごはんを作りながら何気なくつけたテレビで、若松英輔さんと小友聡さんが対話しているのを聴いて、言葉が、石清水みたいに沁み込んできて。
もっと深く出会いたくて本を買い、心に留めたいところに付箋をつけたら、ほとんど全部のページに貼ることになってしまいました。
言葉をかみしめながらゆっくり、ゆっくり読んでいると、甘い湧き水を飲んだように心がうるおい、底のほうから静かに満ちてきます。
私はプロテスタントの幼稚園に通っていたから、教会に入ると懐かしさを感じるし、銀座の教文館書店がとても好き。
だけどキリスト教徒ではないし、旧約聖書にもぜんぜん詳しくないです。
コヘレトの言葉も、番組を見るまで知リませんでした。
けれど、たとえば
「空は空、一切は空である」
「愛するに時があり、憎むに時がある。
戦いの時があり、平和の時がある」
というような言葉に、ふしぎと心が惹きつけられるのです。
仏教がそばにある日本人にとって、馴染み深い考え方のようにも感じます。
人生は束の間であり、同時に永遠であるということ。
いつ来るかわからないものをただ「待つ」ということ。
たとえ自分が果実を得ることが叶わなくとも、後から来る誰かのために種を蒔くということ。
頭で「わかる」本ではなくて、不安なとき、迷ったとき、苦しいときにそっとひらいて、身体に染み込ませる本になりそうです。
読んでいただきありがとうございます! ほっとひと息つけるお茶のような文章を目指しています。 よかったら、またお越しくださいね。