長い長い道のはじまり
「僕もお茶に行ってみたい」
8歳の長男が言った。
土曜日の夕方になると、着物に着替えてうきうきと楽しそうに出かけるお母さんが一体何をやっているのか、気になっていたらしい。
長男が空手を習いはじめて2年半。
ある程度まとまった時間、正座もできるようになってきたし、そろそろいい頃合いかもしれない。
お茶の先生に相談し、お許しをいただいて、ほかのお弟子さんが集まる前の、早めの時間におじゃますることになる。
*
畳の上に手をつき、「よろしくお願いします」と挨拶する長男。
「いろいろなことに興味を持って、やってみるのはとてもいいことですよ」と先生はにこにこしている。
息子が初めて飲む1杯は、私が点てることになった。
運び手前。茶入れは老松。
家では5分とじっとしていられない息子が、神妙な顔で正座をして、お菓子をいただいたり、私の点前を真剣に見ている。
お茶を点てる人である自分と、お母さんである自分が脳内で混線を起こして、手がちぐはぐになる。
抹茶は熱くて苦い。子どもが飲めるかな…と心配だったのだけど、息子は少し冷ましてから飲み干して「美味しかった」と言った。お母さんとしてではなく、お茶席の亭主として、ほっとした。
*
「よく見て、よく音を聞いて、匂いを嗅いで、味わって、感覚を全部使って楽しむのがお茶なんですよ。あのね、お釜に、お湯が沸いているでしょう。沸騰している音が聴こえるわね。冬はお客さんがあたたまれるように、この場所にお釜があるの。夏は暑いから、お釜があちらに移動するのよ」と先生。
「そうしたら、お茶を点てるときの順番も全部変わるんですか?」と息子。
「そうですよ。何でも、どうしたらお客さんが一番心地よく過ごせるかというところから考えるの」
そこで、彼にとってはお兄さん弟子にあたる先輩がやってきて、お点前を披露してくれた。
じーっと見ていた長男、「あ、お母さんと最初の座り方が違う」「腰についている布の色がお母さんと違うよ。女の子と男の子で違うの?」「あの布、お母さんは上から入れたけど、お兄さんは下から入れたよ」と、私が半年くらいかけて気づいた男女の点前の違いを次々発見していく。
「しーっ。お点前の間は静かにしていなさい」
「(ひそひそ声で)ねえお母さん、あの布、なんていうの」
「ふくさっていうんだよ」
「先生、ふくさのやり方を教えてください」
折り紙が好きな息子、袱紗がくるくると折り畳まれていく様子に引き込まれたらしい。
見よう見まねで塵打ちをしてみるが、力が入りすぎて、うまく音が鳴らない。
「やさしい気持ちでね。袱紗捌きには、その人の心があらわれると言われています。雑な心では、雑な音が鳴りますよ」
ぎくりとする私。
「わかりました」と頷いて、何度も何度も、もくもくと袱紗を畳み直す長男。そのうちに、「ぽん」とそれらしい音が出るようになった。
「先生、塵打ちの”ちり”は、ちりとりの”ちり”ですか?」などと質問をしながら空中で畳む練習をするが、なかなかきれいにふちが揃わない。
「難しいわね。袱紗を上手に畳めるようになるには、3年かかるって言われているのよ」
「えっ!そんなにかかるんですか?」
「そう。茶道の”どう”は”道”という字を書きます。長い長い道ですよ」
「終わりのない道ですね」
お兄さん弟子も頷いて、にこにこと長男の袱紗捌きを見守ってくれている。
袱紗を畳みながら、何やら考えていた様子の長男、ふと顔を上げて、「お母さん、僕お茶を習いたい」と言い出した。
「いいですよ。いつでもいらっしゃい」と、大人のお弟子さんと同じように、やさしい言葉で見送ってくださった先生。
大切なお話をたくさん聴かせていただいて、袱紗もさわらせてもらい、長男のお茶との出会いは、なんと贅沢なものになったことだろう。
*
帰りしな、先生から私に、お許しの免状をいただいた。
「入門」と「習事」。
免状といっても、何かができるようになったという証明ではない。
これから茶道のお稽古を始めていいですよ、というお許し。
2年かかって、ようやくたどり着いた入り口の門だ。
もとより、急ぐ道ではない。
誰かと比べたり、どこかにたどり着くために稽古するのでもない。
ただ、できるだけ長く、先生のもとで季節が移ろっていくのを見つめることができたら幸せだなあと、心から願う。
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今日のお軸は、『一花開天下春』。
ひとつの花がひらいて、春の訪れを知る。
今日、門の入り口に立ったばかりのお母さんが、「家に帰ったら手拭いで袱紗の練習する!」と張り切っている息子に追い越される日も、そう遠くないのかもしれない、と予感を抱きながら家路をたどる、心愉しい春の宵。
(ときどき袋帯を練習しないと忘れてしまうので、今日は牡丹の帯を。母の嫁入り道具だった、大好きな柄)
読んでいただきありがとうございます! ほっとひと息つけるお茶のような文章を目指しています。 よかったら、またお越しくださいね。