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映画『ハウス・オブ・グッチ』

70〜90年代のグッチ家を描いた本作は、“GUCCI”の名と富を巡る対立の話である。パトリツィア・レッジャーニ(レディ・ガガ)は、パーティでGUCCI後継者であるマウリツィオ・グッチ(アダム・ドライバー)に出会う。“物流関係”の仕事をしている両親のもと砂埃にまみれたオフィスで働いていたパトリツィアは、優れたコミュニケーション能力と先見性で見事マウリツィオを射止め、グッチ家に参入する。この頃のグッチ家はブランド展開や方向性について各々がヴィジョンを持っており(または持っていなかったり)まとまりがない。巨富を狙うパトリツィアはこの亀裂に入り込み、自分の利益の邪魔となる者を排除し、この一族にはさらに大きな分断ができていく。

GUCCIは一流ブランドでありながら、いや一流だからこそ、いまとなっては正直言って成金の象徴のような立ち位置にある。GUCCIを好む人は2種類いて、一方はデザイン性を気に入って着ている人。もう一方は、GUCCIの持つ富のイメージを着ている人だ。後者はGUCCIのイメージを着ることで自分のステータスアップを図る。上品にGUCCIを着こなすことよりも、遠くからでも一目でわかる派手なGUCCI ロゴの有無の方がよほど重要なのだ。

この作品では、マウリツィオはGUCCIのファッションアイテムを、パトリツィアはGUCCIのイメージを身につけている。マウリツィオのルックは派手というよりむしろシンプルささえ思わせる。それでいて、素肌はほとんど晒していないのにも関わらず、じゅわっと滲み出る色気まで兼ねそろえている。ファーストシークエンスでは、マウリツィオが身につけているホースビットローファー、ダブルGマークのベルトといったGUCCIのシグネチャーアイテムが次々と映されるが、GUCCI全開であるというのに、ステータスでGUCCIを欲しがるものとは明らかに違う着こなしなのだ。そもそもマウリツィオが控えめな性格というのももちろんあるが、それ以上に金銭的ではなく内面的な豊かさという意味での“リッチ”という言葉が非常によく似合う佇まいをしている。GUCCIのアイテムが、マウリツィオを魅力的にみせるファッションアイテムとして機能しているというわけだ。

一方で、パトリツィアには54着ものルックが用意され、大ぶりのアクセサリー、胸元が大胆に開いたボディコンシャスなワンピースなど、頭から足のつま先まで豪奢に飾り立てられている。それなのにどうしてだろう。私はパトリツィアがファッション好きとは思えなかった。いや、たしかにすごくファッショナブルで私の好みど真ん中であるはずなのだ。しかしグッチ家に入ったあとのパトリツィアのルックには、ファッションとしてGUCCIを着ているというより、富のイメージとしてのGUCCIを着ているようにしか思えない。まだ砂埃が舞うオフィスで働いていたときのパトリツィアはきっとファッションが好きだったと思うし、その時の方が断然お洒落だ。富のイメージはなくとも、ちょっとした小物にも気が利いていて、心からファッションを楽しんでいる感じがする。

GUCCIというブランドの恐ろしさは、着る人次第で上品にも下品にもなるということだ。私の思うお洒落な人というのは、富のイメージを着ている人のことではない。心からファッションを楽しみ、なぜそのデザインが良いのか、どうしてこれでないとダメなのか、そこにしっかり自分の意思がある人こそが真のファッショニスタである。

なお、パトリツィアを演じたレディ・ガガは世界が周知の通り、最高にファビュラスな人間だ。ガガが、ガガとしてGUCCIを着るのであれば、ファッショナブルの極致になるのは間違いない。それはやっぱり、ガガは斬新で奇抜で芯の強いファッションをずっと貫いてきたからだ。この作品では、ガガ本人の普段のファビュラスさを再認識するとともに、パトリツィア役の俳優としてここまでファビュラスさを削ぎ落とし富に眩む人間にもなりきれてしまうその才能にただ驚くばかりである。

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