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育児と七尾旅人さんと灯火と

いわゆるワンオペ育児だった。
ワンオペ育児という言葉は、離婚した、未亡人である、単身赴任、夫が闘病中、夫が協力的でない等、事情は様々だけれど、私の場合は夫は健在である。両親・義両親ともに健在。更に人によっては協力的と言われるかもしれない。

夫は家事は頼めばやってくれる。
休日は晴れていれば少しの時間、子供を外に連れ出してくれる。
ゴミを纏めておけば、通勤前にゴミ置き場まで運んでくれる。

ワンオペちゃうやん!と思う方、そうそう、言わなやってくれへんねん!と思う方、どちらもその通り。

夫については私が望んで決めた結婚で、家事や育児をして当然と期待して結婚したわけではないので、あれこれ言うつもりはない。まあ、時々イラッとする時はもちろんあるけどお互い様という事で。

私が言いたいのは夫への文句ではなく、自分で自分を追い詰める完璧主義こだわり人間の私自身の話だ。

辛い思いをするのが美徳と思っていた訳じゃない。こうしたい、という希望がいつの間にか自分を苦しめるパターン。
掃除機は毎日かけたい。夫が帰ってきた時には部屋を片付けておきたい。決まった時間に子供を風呂に入れ、寝るようにしたい。手を抜いてると思われたくない。そして自分の時間も大切にしたい。
親達に何かをお願いするより自分でやる方が気を遣わなくていい。全部自分で何とかできる。自分を過信していた。その結果、時間に齷齪して私自身の笑顔を減らし、少しずつ家族を窮屈にしているとも知らずに。

長男は赤ちゃんの頃から夜泣きがあって、幼稚園に入るまで眠りが浅かった。幼稚園に入ってまもなく三男が生まれた為(次男はその前の年に死産している)、私は5年ほど細切れ睡眠だった。長男は喘息だった故、小学校に上がるまで風邪を拗らせ何度も入院した。親付き添いの為に弟も一緒に入院しなくてはいけないから、いつも私は子供達が風邪を引かないように常にピリピリしていた。友達と約束した時に限って風邪をひくものだから、友達の誘いにも応じれなくなった。
夫は汚物の処理も薬の飲ませ方も風呂も寝かしつけも一人でやったことがない。私が全部一人でやってきたせいで。
私はいつも疲れていた。休めるはずの時も「やらなければいけない」と「やっておきたい」無駄に頑張っていた。

その育児と家事に右往左往していた日々、好きな音楽は聴かなかった。夜泣きの為に買った赤ちゃんが眠れるオルゴール、教育番組の子供の歌。「カエデの木の歌」という歌がとてもいい曲だったけど、初めて聴いた時に嗚咽するくらい泣いてしまい、(次男を失ったた頃だった)長男をびっくりさせてしまったので、敢えて聴かないようにした。

好きだったバンドの新譜はCDだけ買って放置し、新しい音楽を探すなど以ての外、楽器を触る事もない。今までテレビはつけなくとも音楽は常に流していたこの私が。

隙間時間が全くなかったわけではないのに、漫画も読まず、何かを創作するわけでもなく、スマホも持っていないから誰かと繋がる事もない。ネットで育児の悩みばかり検索していた。

自然に耳に入ってくる音楽はいつも前向きで、今まで好きだった歌もガラスの一枚向こうにある感じがした。育児ノイローゼはどんなものか知らないが、私自身のバロメーターがあるとすればその時は明らかに正常値ではなかった。

今になってつくづく思う。私は育児に向いていないのだ。よくぞここまで大きくなってくれた我が息子達よ。

反面、完璧主義だから外面は良く、穏やかにママ友と交流をしたり、休日は公園に行ったり、月一で義両親の家に泊まったり、日々こなしていた。幸せに見えたと思う。いやもしかしたらどこかで疲れの片鱗は見えてただろう。自分は冷静で柔軟な人間だと思っていたのに、周りは全て敵に感じて笑顔の鎧を纏い、その中で感情の渦に溺れて息が出来ず苦しんでいる。
楽になりたいけど死ぬ事もできない。精神科に行く勇気もなかったし、病んでいたかどうかもわからない。外面よく振る舞えていたのだからそんな必要もなかったのかもしれないし、甘えてるんやと言われればそうなのかもしれない。

そんな状態が突如一変する。三男が幼稚園に入園して一人の時間ができたのだ。初めのうちは慣れなくて居心地悪かったのだが、徐々に部屋の整理をし始めてCDを眺めていた時に久しぶりに聴こうかな、と思ってたまたま手にしたのが七尾旅人さんのひきがたり・ものがたりvol.1蜂雀というアルバムだった。

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このCDの「線路沿い花吹雪」は私が2004年に劇団で上演した劇の客出しで使われたものだ。

その作品は1997年に初演、2004年に再演。(私は初演・再演ともに出演したが配役は違う。再演は当時の若手がメインで私は他の「宇宙の旅、セミが鳴いて」という京都ビエンナーレセンター演劇公演の稽古と二足の草鞋で参加していた。冒頭の写真は当時のフライヤー)

その作品は「山から吹きおり」という劇団の代表の鈴江俊郎さんの戯曲で説明として以下のような文章が掲載されている。

大学を卒業・就職して一年目の夏、高校時代の旧友が集まった。
野球部の選手だった同級生の命日なのだ。
彼は突然事故で死んだ。
皆心の中で彼の死と自分の生とを比べながら生きている
生きている実感を確かめたくて会話している。
一人の女は若くして母となり、子育てに疲れて赤ちゃんを殺してきたところだった。
疲れて眠る女。
残る三人はこの事態にとまどい、
そして考えることになる。
生きているリアリティー、っていうのはなんだろう。
どこにあるのだろう。
ここにある、と教えてくれるのは一番不幸なはずのその女の寝顔なのかもしれない。(1997年6月 劇団八時半公演)

私の役は赤ちゃんを殺めた女性。

今思えば、この女性は実生活での私だったかもしれないと思う。私は子供を殺めるほどの極限に至らなかっただけに過ぎない。

芝居は言葉で説明するとその価値が薄れる気がするので難しいのだが、終盤、赤ちゃんを殺めた女が警察に自首の意を電話して部屋に戻ってくる。其々が其々の複雑な思いで彼女を見つめる友たち。

女「何やってんの?」女が言う。
友A「え?」
友B「…野球」
友A「え?」
友B「野球ごっこ」
女「私も混ぜて」
友A「うん、」
友B「うん、いいよ」
野球ごっこが白熱していく。
いよいよ盛り上がって来た時に盗塁、女はベースに滑り込む。
友A「…アウト?セーフ?どっち?」
「セーフ!と叫ぶ友B。
「セーフったらセーフ!セーフセーフセーフ!」
うつ伏せのまま静かに「…私、大丈夫だよ」と返す女。友B「うん」友A「うん」
「よし、じゃあ次はこっちの攻撃ね」
何もなかったように野球ごっこは続く。余韻を残して暗くなってゆく。

暗転したところに七尾旅人さんの音楽。その中で役者の一礼。

七尾さんの「線路沿い花吹雪」がそっと掌で包むように流れる。
罪を犯した彼女を、それを見守る友たちを、その芝居を観ていた観客を。

記憶を辿って書いているので正確ではないし、こんなに詳しく書いていいのかわからないのだけど、誤解されないように書くと、赤ちゃんを殺めた人間を擁護する芝居ではない。罪は罪だ。だけど私かもしれないしあなたかもしれない。友達かもしれないし、自分の娘かもしれない。
そうだった時、どんな事を考えるだろう。

七尾さんの音楽を選曲した私の夫(音響を兼任していた)のチョイスに賞賛する。(身内を褒めるのは不本意だが。いや、まだギリ付き合ってもいなかったから身内ではない)

その後、私は七尾さんの全てのCDを集め、中でも「八月」と「ヒタ・リーを聴きながら」「圏内の歌」という曲は自分の葬式の時にかけてもらうプレイリストに選んでいる。

七尾旅人さんの曲は沢山あるけれど、声の温度が温かい。もし心というものが体に存在するならば、両手で隙間なく包んでくれる体温を感じる。そしてそこには意志がある。いや、意志という言葉が正解かわからない。灯火、炎芯のような小さいけど醒めない熱。

そんな七尾さんがコロナ禍の中、フードレスキューを始めた事をSNSで知った。
コロナ感染により入院できない、買い物できない状況である方達にSNSで連絡を貰って、食料を自腹で届けるという。
その動きに賛同した人達が次々と名乗り出て、全国で動いている。音楽だけでなくお人柄もこんなに温かい。いや、お人柄が音楽に表れているのだ。ラジオで話されているのを聴いていても温かさの中に炎の芯を感じた。

私自身も名乗りを上げて動いてみる事を考えたが踏み出せていない。情けないが他人とSNSで連絡を取る事が怖い。私はまだ動けない。
そして逆に感染した場合、助けを求めるだろうかと想像してみたが、多分、連絡はしない。
この問題は音楽を聴けなかった時の自分をそのまま引き摺っているのだ。優しくない自分。余裕がないと言い訳する汚い自分。頼るのが苦手な自分。助けて、と言えない自分。全部自分で片付けてしまおうとする自分。何とかなると誤魔化し続ける自分。

こんな拗れた人間は私以外にもいるかもしれない。人に頼るの事に慣れない人達はいるだろう。実際、フードレスキューの依頼は想像していたより少ない様子だ。
でも七尾さんや賛同者の行動によって助けてもらった人は確実にいて、その背景でその動きや言葉に力付けられた人は絶対に沢山いる。七尾さんの音楽とお人柄、心を包んでくれる掌の体温。醒めない熱が私や多くの人に力をくれているに違いない。

七尾旅人さん、ありがとうございます。
私は私と闘います。七尾さんみたいな、当たり前のように手を差し伸べられる人になりたい。