母の日に想う
性被害に遭ったわたしは、もう男の人を好きになったり、愛したりすることはないだろうと思っていた。
たとえ好きな人ができたとしても、身体はどうだろう、体感はどうだろうと不安は尽きなかったが、カウンセリングも終盤に差し掛かったところで夫となる人と出会う。
結婚に関してはなんの迷いもなかった。
夫に過去のできごとを話したが、特に動揺した様子もなく、そういう経験をしたわたしが自分には必要なんだというようなことを彼が言ったのを覚えている。
最初の子を流産したときは、つくづく女性として生きるのに向いていないと思った。
なぜ女性として生まれたのか?
なぜ性被害を受けなければならなかったのか?
という答えがない問いをずっと自分に投げかけていた。
そんな自問自答を繰り返しながらも、いつの間にか
男の人を愛せるようになっていたり
母親になっていたり
想像もしなかった未来が待っていた。
生きていれば良いことがあるよという簡単なお話ではない。
はさみを持てるようになった時、カウンセラーがこう言ってくれた。
あのことがあったから、ひとつひとつ確かめながら確実に回復して力をつけてきた。
こういう人生を送れるというのはめったにない。
大きな贈りものだと。
同じようなことを、今学んでいる方からも言われた。
自分の今生でのテーマを深く知るために、女性というもの全て、一度閉じること。
それが必要だったこと。
地を這うような苦しみがあったからこそ、見えるひかりがある。
それをようやく心と身体で、ただただそうなんだと受け入れることができた。
それが「乗り越えた」ということだよと教えてもらった。
もうここまできたんだ。
今はとにかくほっとしている。
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