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私はいつも綱渡り人生。だけどいつも人に助けられて生きて来た。

どういう訳か私の人生には、周期的に苦難が訪れる。

家族のこと・・・

親子関係のこと⇨私は10歳で最愛の父親を事故で亡くしている。当時の表現で言う母子家庭で弟と2人育った。

・愛情のこと⇨父親からの愛が突然の死によって突然絶たれた。その衝撃と喪失感とその後の孤独。母親との関係は時折冷たく感じ、理解者ではないとずっと思っていた娘時代。それはその後も長い間続いた。

夫婦関係のこと⇨普通の家庭に憧れた。お父さんが居て、お母さんが居て、そして子どもが居て。でも1人目の旦那さんとは家族観が徹底的に違った。長い交際の上私は24歳で結婚した。母との二人暮らしがとても苦しかったから早く家を出たかったのも理由の一つかもしれない。弟は大学で地方で一人暮らしをしていた。

一緒に住み始めると彼との関係性が変わった。交際時代はとても仲が良かったけれど、結婚した途端、ろくな会話もなく、子育てを手伝ってもらうこともなかった。彼は仕事のことで頭がいっぱいだった。それはそれで喜ばしいことかもしれないけれど、理想の家庭像を昔の自分の家庭像に妄想してしまっていた私には、残酷な現実だった。その後、それだけではなく様々な理由からすれ違いが修正出来ず、7年間で結婚生活は破綻した。

そしてその後私は、私と同じように離婚歴のある男性と子連れ再婚した。その人は子どもがとても好きで家庭的な人だった。子ども達が喜びそうなところへよく遊びに連れて行ってくれた。その人は長男を引き取っていたので、私は養子縁組をし、義理の母となった。その息子は、実子の長男より2つ学年が上で、実子の長男は戸籍上私の次男となった。3人の男子の母親となり、賑やかな家庭が築けるかと思ったけれど、本当は入籍にはとても迷いがあった。けれど、当時働いた店が閉店し失業するなど、その人との生活に賭けるような思いで、知らない土地での生活が始まった。当然、私の母は大反対をし、親子の縁を切るとまで言われた。誰にも祝福されない再スタートだった。

そんな中始まった再婚生活だったので、泣き言は許されなかった。母と話すことはあったけれど、弱みは全く見せられなかった。知らない土地で私は随分苦しい思いをしたあの30代は、今でも記憶を封印している7年間だ。問題はいくつもあったけれど、端的に言うと今度は借金人生。結婚して初めて教えられたのが、銀行でのキャッシングの仕方。毎月30万をキャッシングし、30万を返済する自転車操業の生活となった。その借金は、二番目の夫の前の奥さんとの生活から生まれた借金。私には関係のない借金。

そしてやがてモラハラ、DVが始まった。私の実子(長男)に対する嫉妬から来るものだった。私に耐えられるのは、7年が限界だった。それは私の2人の実子にとってもそうだったし、きっと義理の息子もそうだっただろう。今ではその人達には全く連絡を取っていないし、行く末を知らない。私は全身あざだらけになって、真夜中の12時に実子だけを連れて家を出た。その時上の息子はサッカーで片足を骨折していて歩けなかった。アザだらけになった身体で夜の高速道路を飛ばし、真夜中に実家に着いた時、初めて母は私を抱き締め「よく頑張った!もう帰っておいで」と言ってくれた。


職場の人間関係のこと・・・

私は幾度となく職場を変えている。その数はもう数えるのが困難な程。先に述べたような生活の変化の度に職場を変えた。会社員にもなった。コンビニ店員も服屋さんの店員もした。職業安定所の職業訓練に通って、医療事務の資格をとってクリニックの受付も経験した。

その後、やはり若い頃にやりたかった子どもと関わる仕事、特に社会的養護の分野(親と暮らせない子どもとの関わりの仕事)を考え、その先駆けとして子育て支援センターに勤めたけれど物足りず、子育て支援員の資格を取得し児童養護施設の指導員となった。それは短大で小学校の教員免許を取っていたので資格を満たしていた。更にその後、やはり必要だと感じていた保育士資格を受験して取った。その後、保育園に勤めるけれど、人間関係から2年で退職し、次に勤めた保育園も体調不良と人間関係から数ヶ月で退職した。半年のお休みを経て、2021年4月に新しい保育園の職場が決まっている。

私の職場遍歴は、それぞれにやり残し感を感じるものだった。もう一歩のところで挫折する。何もかもが耐えられなくなり、やる気がなくなり体調に支障を来す。継続出来ないことがまた自分を苦しめる。

トータルで考えると私は、様々な職種で色々な力を付けてきたと言える。ただ、今は保育園という小さな箱の古いしきたりの中での保育士の仕事が自分にとって本当にやりたい仕事なのかどうか分からない。誰しも理想的な仕事をしている訳ではなく、多少の妥協や辛抱を経て継続に繋げるのだろうけれど、正義感が強すぎた私は、子どもの最善の利益になっていない現場の状況が耐えられなかった。だから本当は4月からの新しい職場に馴染めるのかとても不安だ。


経済のこと・・・

私は、何不自由なく育ててもらったと思う。最初の結婚生活では、夫は十分なお給料を入れてくれた。その後離婚するに当たり、先に述べたようにキャッシングによる自転車操業の生活、その後シングルマザーになって2人の息子を育てる中で、厳しいこともあった。私はその時、まさに私の人生は転落人生だと感じていた。けれど、私がそう育ててもらったように、子ども達にひとり親家庭であると言う環境で選択肢を狭めたくなかった。私は、自分がひとり親家庭で育った寂しさを抱えて生きて来たのに、息子達にもまた同じような経験をさせてしまったことに後ろめたさがあった。しかも2人の息子は1人目の夫が実親だが、彼は6年程前に末期癌で亡くなっている。

亡き実父の遺産相続のお陰で、2人の息子達は無事に大学へ進学し、下の息子も大学生活があと1年となる。就職先が決まれば、ようやく私は肩の荷が降りるかもしれない。そして、気付けば子育てにかける費用を削りたくなかったので、私に残された貯金でどれだけ生きられるのか?なんて考えて行くと、またこれからも綱渡り人生を過ごすのかもしれない。

もはや何でも受け止められる自信はあって、もはやどうにでもなると思っている。父親が亡くなった10才の時から50歳になった今までの人生を振り返っても、私は1人で生きて来たのではないし、どんな形にせよ、いつも周りには励ましてくれる人達がいた。私は繊細で寂しがり屋で、曲がったことが大嫌いで妥協出来ないところがあって、決して社交的とは言えないだろう。きっとこれからも、嫌なものは嫌、と避けて通るのかもしれない。

生きるとは、嫌な状況を我慢して耐えて忍ぶことではない。心から笑えた時、周りの人の優しさを受け取ることが出来るし、思いやることもできる。だからどんな状況であれ、笑って吹き飛ばしたいのだ。そして私がこの世から居なくなる時に、遺していく人達に「あの人は波瀾万丈だったけれど、いつも笑っていたな。」と思ってもらいたい。本当に今の私を知る人は、泣いていた私を思い浮かべるのかもしれないけれど。。。

だから私はもう泣かない。笑って生きて行く。そんな強さを私は持っていると今でも信じている。


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