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幼少期の思い出-3- | 私が完全に消えた日

最初のnoteの記事で書いたが、私は今何も出来ない。
これでも挑戦はしているつもりだ。3社即退職。これだって、頭が動かなくなって土日も夜も眠れないで「やらなくちゃやらなくちゃ…」と碇シンジくんばりに自分を追い詰めても体が動かなくて、辞めた。
良い条件で周りも優しくて、休息だって1年取った。それでも体が動かない。

今はイラストの仕事に手を伸ばそうとして、嫌な予感がしている。
以前、イラストで自営をしていた時の最後の方は酷いものだった。
栄養失調でメニエール症候群。一歩も家から出ず、仕事の依頼のメールが来ると起き上がって絵を描く(仕事以外にメールは来ないので音が鳴るようにしていた)。人との交流は「了解しました」「送ります」を打つだけ。
もうこの仕事をしなくていいとなった時、イラストソフトが立ち上がるのを見ただけで吐いた。もう2度と絵は描けないかもしれないと思った。

他の仕事がいっぱいあるじゃんと思うだろう。他の仕事をいっぱいやってどれも追い出されて、やっと自分なんかでも出来た仕事だったのだ。
やりたい仕事だったから頑張れただけだったのかもしれないけれど。

今特にやりたいことがない。しかし金もない。
生まれ変わった気持ちで頑張ろう、今自分に出来ることをやろう。そう思って真摯に取り組もうとした。
しかし体が、動かなかった。今も動かないことを情けなく思う。

今日は、こんな風になった時が子供の頃にもあった。その時の話をやっとこさしよう。


当時私は頭がぼーっとしてぐったりと体が動かないという症状を訴えて学校を休むことが多くなっていた。
母は3日くらいは休ませてくれたが、それ以降は仮病だ、怠けだと言って力づくで私を家から追い出した。そのまま学校に行かないでぼーっとしてる日もあれば、学校に行った日もあったと思う。

記憶がない日が増えてきて、言った記憶がないことを言ったと言われ、聞いた覚えがないことでよく怒られた。

一方、児童館の時間がなくなって自由時間が増えた私は、母のPCでメル友を作った。みんな20代以上の大人で一緒にWEBサイトや掲示板、ゲームを作ったりして遊んだ。
当時アニメの声はどうやら人が当てているらしいと知った私は、この仕事なら出来そうだと思い、演劇の教材を毎日持ち歩いて練習した。
母は私が幼稚園の時から「お前は社会ではやっていけない。死ぬしかない」とよく言っていたので、私でも出来る仕事は何か常に探していた。

相変わらず友達が出来なくて、アニメの主人公たちで「人気者」っぽいキャラの考察をして真似してみた。
修行しているとか、元気だとか、よく食べるとか。特徴を見つけては実践した。
朝は6時から7時まで筋トレやジョギングなどのトレーニングを行い、学校では「1人ラジオ」とあだ名がつくくらい喋り、給食は「家でご飯を食べさせてないんですか」と親が学校に呼び出されるくらい食べた。友達はできない。
走り方や手の動きなんかも取り入れてみた。「キモいよお前」と言われた。
それでも何かをやらないと友達はできない。試せるものはなんでも試さないと。
私は私のままでは愛されない。
私は何かになって、誰かに愛されたかった。

友達がいないので喋る内容があまりなかった私は、どんどん嘘を吐くようになる。徐々に話してる内容が嘘なのか本当にあったことなのか、自分でも分からなくなっていった。

全員寝静まった午前2時から明け方までは再び私の自由時間だ。アニメの録画をコマ送りにして模写を続けた。
模写は上手く出来た。
アニメの絵は多人数で動かすように出来ているから子供でもそれっぽく描けるのだろう。すごい技術だ。

家で家族といる時、「私なんか洋服を買ってもらう価値はないです」「私なんか布団に入れてもらう価値はないです」と考えていた。
ハサミは物を切れる価値がある、でも私は何も出来なくて価値がない。なんだったら迷惑しかかけない。捨てられないゴミだ。
当時母から「あなた、夜中に歩いていたわよ」と言われた。夜中絵を描いてるのがバレたかなと思ったが、私はどうやら「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と呟きながら家を掃除していたらしい。
「夢遊病ってやつじゃないの?やっぱり頭がおかしいのね、あんた」
ああ、ハイジのアニメで見たことあるなあと思った。

とはいえ、辛いと思うことは特に何もなかった。
毎日が夢のようにふわふわしていて、今が夢なのか現実なのか見極めるのが難しくなってきた。
これは夢かなと思って半日過ごすとどうやら現実らしいとなったり、これは現実だなと思って夜まで過ごしたのに夢だったということも起き始め、常に警戒していた。
喘息まがいや、アトピーまがい、目のチックも酷くなっていた。母に言わせれば、それらの症状も全部私の嘘ということだった。
嘘つき、詐欺師。
母は私を軽蔑していた。

母には内緒だが、窃盗もよくしていた。
うちはお小遣いがなかったので、私は近所のコンビニや文具屋の窃盗常習犯だった。
防犯カメラの位置を確認し、店の構図とカメラに映るであろう範囲を頭の中で描く。死角になる位置に立ち、どこからも見えないようにさりげなく必要な物を服の中に隠す。
体はいつも自分が思ったように動いてくれるので失敗はなかった。
ペンやノート、筆箱。必要なものを、出来るやり方で、手に入れていた。

こうして書くと、当時は常に睡眠不足でストレス過多だったんだろう。
それが原因なのか、よく車に跳ねられるようになった。

青信号を渡る。普通に。
衝撃と共に体が跳ね上がり、地面に落ちていた。
宙を飛びながら記憶は飛んでいたので痛みはない。写真をぱしゃっと撮って、その光景が段々と遠ざかっていくみたいで面白いと思ったくらいだ。
私はよく気絶する子供だったが、気絶している時大体きれいな夢を見る。白詰草の草原とか、きれいな小川とか。
普段怖い夢しか見ないので、気絶する時に一瞬見る夢が私は好きだった。

大人たちが周りを囲んで「救急車を呼ぼうか?」と言っていた。
私はすぐ起き上がって「大丈夫です」と答える。病院に連れて行かれたら母に怒られる。


考える。青信号だったのに…。もっと注意深くならないと。
私はそれから信号はよく見て、左右に車がないことをことを確認し、絶対の自信を持ってから信号を渡るようにした。

衝撃。
飛ばされる。
運転手の怒号。

急いで信号を見ると赤だった。周りにもたくさん車がいる。
何も見えなかったし聞こえなかったのに。
そんなことが何回か続いた。


私は嘘つきだ。
自分でももう記憶が正しいのかどうか分からない。
それに加えて、視界や聴覚まで嘘つきになってしまった。
自分が1番信用できない。
何をされても文句は言えない。
私だってこんなやつ、嫌いだ。



気づくと、いつも彩度の低い砂漠のようなところに立っていた。
いつからここにいたのだろう。初めてのようで、慣れ親しんだ場所のような気もする。
そこはいつも夜で、遠くに家が連なっているのが見えた。窓からの灯りがチラチラと輝いている。
たまに人も通る。みんなどこかへ帰るために歩いているらしい。
私は体育座りしてぼーっとしていることもあれば、どこかに向かってひたすら歩いていることもあった。
たまに深い崖のような、でも感触は湖のような、ただ暗い闇のような空間があって、私はそこに腰掛けて街明かりを眺めた。
そこは静かで、寒くも暑くもなく、何の感情も湧かない場所だった。

殆どの時間をそこで過ごすようになった。
現実(多分)に戻ってくると、頭がシーンとしていた。その代わりに誰かが喋っていた。3人くらいいる。
私はそれを、流れてくるテレビの音を聞くみたいに聞く。
私の意見なんてなかった。
みんなが決めてくれる。それを私は興味なく聞いていた。

現実での視界は、子供の頃見た砂煙で汚れた車の窓みたいに曇ったレンズに覆われていた。
自分の手足に大きな枷を付けられて鎖で繋がれているのが見えた。重かった。体が重くて、何もかも面倒くさかった。

私はこうして、いなくなった。


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