世界一周5ヵ月目-愛について考えること
書かなきゃ、書かなきゃ…と思ってるうちに意識は遠のき、もうすぐ旅を始めて5ヶ月が終わろうとしています。
昔から変わらない、継続下手な性格に苦笑いしています。
旅の初めは明確明瞭な、気づき!学び!が転がっていたんですが、今はそれをベースに微調整が加わっている段階に入っているような感じがします。
新しい粘土が目の前にドドンっと現れたのが旅の初期、最近は日々の経験によってその粘土がいろんな形にコネコネされている感じ。
そんな中でもぼんやりと浮かび上がるキーワードは「愛」と「宗教」だったような気がするので、今回は愛をテーマに。
「愛」について考えること
実は、旅をする中で恋人ができました。
旅を始めてから、微塵も想像もしていなかった出来事の連続です。
いわゆる国際恋愛なのですが、それがまぁうまく行かない!笑
何度1人でメソメソ泣いたかわかりません。腹が立って相手を正面から責めたこともありました。相手を尊重しようとしたら逆に自分を押し込めて辛くなったことも。
こりゃあかんと思ってこの本を読みました。あと、人生の先輩にも相談。
これが私の価値観をごそっと揺さぶってくれました。
自分の物差しで測る愛は不幸の元
元々完璧主義な私。治したいと思ってもなかなか治らない。
自分の生活や仕事や全てに関して、無自覚に
「ここまでできて普通」
「やるからにはこのくらいはできなきゃ」
というハードルを設けてしまう。
しかもそのハードルが高くて、越えられなくて落ち込むまでがセット。
真面目な日本人(自分で言う)には結構多いマインドかもしれない。
私はそれを、あろうことか無意識に恋人にも課していた。
「好きならこのくらいやるよね?」
「真剣に向き合ってるならこれはしないでしょ」
育ってきた環境が違う彼と私では、そもそも共有している価値基準が極端に少ないし、同じ日本人だったとしても、感覚は一人一人違う。
同じくらいの愛情を持っていたとしても、それをどんな形で、どの程度相手に見えるように表出するかは人それぞれ。
そこをいちいち責めたり、矯正しようとしても意味がないどころかそんなの超傲慢だった。そりゃ彼に届かないわけだ。
書いてみれば当たり前のことだけど、私は、「ハードルを設けて、それを超えるか越えないかで良し悪しを図っている自分」にすら無自覚だった。
「そう」なのだ
自分が作った"謎の”ハードルに達しているか、達していないか、という価値判断は自分も相手も不幸にする。
だから、相手に物差しを当てず、ただ相手の行動をつぶさに、ありのままに見てみることにした。
そうすると、
「段差あるから気をつけて。」
「晩ご飯食べた?」
「今日はどんな1日だった?」
そんな何気ない会話にこそ、彼は愛を表現しているのだと教えてくれた。
(そんなのは当たり前の事で愛情表現じゃない!というのはまたまた私の勝手な物差しなので、そのまま「そうなんだ」と受け取る。)
そう分かってからは、その一つ一つが心から嬉しくてにんまりするし、「I love you」とか「I miss you 」とか直接的な愛情表現がなくても満足なのだ。
そして不思議なことに、そういうふうに捉えるようになってから、直接的な愛情表現をしてくれることも増えた気がする。それはそれでとても嬉しい。
愛は勝手に受け取っていい
この考え方にシフトした効用は実はもう一つあって、恋人以外の世界からもより多くの愛を受け取れるようになったこと。
クールな店員さんがほんの少し微笑みかけてくれたこと。
昔の友達がふいに連絡をくれたこと。
誰にも邪魔されず物思いに耽ることができたこと。
そんな一見他愛のないことも、世界からの愛だなぁと感じられる。そこに「完璧な一日」の物差しを当てて測ってしまうと、それは些細な出来事の一つに成り下がってしまうけど、事実だけ見れば、決して当たり前じゃない幸せだから。どんどん愛にカウントしちゃえばいいのだ。
巷に溢れる「愛されテクニック」とかよりも、「勝手に愛を受け取るマインド」の方が私にとっては意味があった。
愛するってなんなの?
愛されるよりまず愛しなさいというけれど、愛するって実際何なのか、私はいまいち分からなかった。
相手を思いやることと自己犠牲の境目はどこなのか?
自分の感情を共有することと相手をコントロールしようとする行為の境目はどこなのか?
何をすれば、その対象をきちんと愛していると言えるのか?
今の私なりの回答としては、
「相手の成長と発展を願って、自分の中にあるものを惜しみなく与えること」が愛だ。
だから、毎日毎日、愛してるよ、大好きだよ、と伝えることが必ずしも真の愛情表現であるとは限らない。
恋人に限らず、相手との接し方に悩んだときは一旦この愛の観点に戻る。
目の前の感情(不満、怒り、悲しさなどなど)と向き合っている今この場所からちょっと上に、ふわっと浮いて見てみる。
そして「この状況でもなお、相手を愛してみるには?」と考える。
つまりこの人がより成長して自分を発展させ豊かになる為に何をしてあげられるか?
新たなアイデアを伝えることかもしれない。
諸々を水に流して冗談めかしてあげることかもしれない。
落ち着くまでそっと距離を置くことかもしれない。
私はそんなにできた人間ではないので、その愛も完璧ではないけど、持っているものからできるだけ与えることが大切だし、試行錯誤してみていいと思っている。
愛という信仰
こう考えてみると、愛には信仰に近い面があるなぁと気付く。
どんな小さなことにも愛が宿っていると信じる。
ありのまま「そうなのだと」受け止める。
他者の幸福を見据えて正しいと思うことを実行する。
競争社会においては搾取や損失のリスクにさらされるかもしれない。
それでも愛するのだと決めて行動する。
それが愛なのだ。なんと難しい。
世に溢れる、恋愛ハウツーとは真逆の存在かもしれない。それは明確で分かりやすい指標となり、多くの人が支持してる=正解(のように見えるもの)をくれる。私もそれに大いに影響されてきた。
そうやって誰かが作った物差しで、それをあたかも自分で考えて出した結論かのように、良し悪しも、正解も不正解も、幸せも不幸も判断してきちゃってたなぁと今になって思う。
でも今は、ここまで書いてきたような、自分が正しいと思う愛の原理に従って行動してみている。(まだ元来の考え方にはまってしまう事もあるけど)
それはもう信仰の域。けれど、信じるものがある人は強い。というか、長い歴史の中で、抗えない自然や悪や運命を前に、強く生きる為に信仰という術を手に入れてきたのが人類だと思う。
次の記事では私なりに理解してきた宗教について書いてみたいと思います。
更にまとめるの難しそうだけど宗教って本当に面白いので頑張ってまとめたい!
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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