見出し画像

弱さを庇いあって生きること

「今日からあなたは家事禁止です。僕が全部やります。」
一緒に住みはじめた彼から家事禁止令が敷かれたのは、1週間ほど前のこと。


そもそもどうしてこんなに奇妙な命令が下ったのか、それには理由がある。
引っ越しと就活のストレスが重なり、引っ越し直前にひどく体調を崩した。その後予定が終わっても具合は良くならず、家からほとんど出られないにも関わらずじわじわと悪くなっていった。

そんなある日、彼が仕事で帰りが23時頃になった日があった。
わたしは1人でなんとか食事や入浴を済ませたものの、ひどい倦怠感でソファで横になってから3時間動くことができなかった。
体を動かそうとすると涙が出てしまう。泣いてでもこの姿を彼に見せまいと唸りながらようやくソファに座ったそのとき、家の扉が開いて彼が帰ってきた。
びっくりしながら駆け寄ってきた彼に、ついに弱音を吐いてしまったのだ。
「働いてもいないのに、外に出てもいないのに、徐々に体調が悪くなっていく。この生活は限界だと思う。だけど、わたしにはもうどうしたらいいか分からない。」

彼の言葉はその次の日のこと。


話し合ったわけではないけれど、なんとなくの家事分担が決まりつつあった。
わたしは得意な料理、洗濯、シンクやお風呂などの日頃の簡単な掃除。
彼は食器洗い、きれい好きを生かして入念な掃除。部屋の掃除はロボット掃除機がやってくれる。
彼は週のほとんどが在宅勤務なので時間があれば手伝ってくれるけれど、働いていない自分の方が自由時間が長いので、1日かけてゆっくりでも家事を多く請け負うべきだと勝手に考えていた。

だから最初は、働いている上に家事を全部任せることに罪悪感があったし、自分のこだわりを伝えて面倒だと思われたくないし、自分がやった方が早いし、と人に任せたくない言い訳ばかりが浮かんだ。

「いいんだよ。わたしの方が自由な時間が多いから、できる時間にやる。」
「あなたのそれは自由な時間じゃないよ。休まなきゃいけない時間だ。」
彼にそう言い返されたとき、わたしはハッとした。
わたしは自分を犠牲にしてでも人に尽くすきらいがある。人に悪い印象を抱かせまいと誰がやってもいい仕事を次々引き受けて、その結果職場で疲弊してしまったこともある。
しかし彼ならば、わたしがいくら家事のこだわりを披露しようと、サボろうと、わたしを悪く思ったりしない。
わたしは思い切って家事を全て彼に任せることにした。


数日間はかなり気を揉んだ。
調味料の場所を聞かれて手伝いたくなってしまったり、形が崩れそうな洗濯物の干し方をしてあるとついつい手を出したくなったり。
家事に手が伸びそうになるたびに、
「休むことがあなたの役割なんだから、休まないことはその役割を全うしていないことになる。今は何もしないで。」
そう言われ続けて、わたしは家事は自分のタスクだという認識を少しずつ頭から外していった。


どうして彼がわたしにここまでしてくれるのだろう。
早く元気な姿を見せてほしい、そんな気持ちももちろんあるのだろうけれど、つらそうなのに無理して動いているのを見るのはきっと彼にもつらいことなのだ。
彼にも持病があって、具合が悪い日の体のしんどさをきっと他の人より理解している。自由に動けないことの焦りを、苦しみを、わたしとは別の種類で長く味わってきた人だから。
だからこそ、わたしたちは弱さを庇いあうために一緒に住む決断をしたのだ。


「僕の方が一人暮らしは長いし、一度こだわりを教えてくれたら覚えられるから。あなたが思うより、あなたにしかできないことは少ないよ。」
食事ははじめこそ塩の調整がうまくいかなくて少ししょっぱかったけれど、おいしかった。洗濯物は縮みも色落ちもせず無事にわたしの元へ帰ってきたし、お風呂もシンクもいつもきれいだ。
彼は賢い人で、自分の限界をきちんと管理できる人だと知っていながら、わたしは彼を信頼してあげられていなかったのだと反省した。
信頼してもいいというサインを常に出してくれていたのに、わたしはそれに素直に甘えることができなかった。
わたしに対して諦めることなくサインを出し続けてくれた彼への大きな感謝とともに、自分にとって人に頼ることはそれだけ難しいことだったのだと実感した瞬間でもあった。


わたしは彼に信頼を返せているだろうか。
頼ってほしいと言われたときに素直に頼る。それも重要だけれど、もっと小さなことでもきっと信頼は返していける。
感謝や謝罪、大切にしている気持ちを伝えるだけでも。少し照れくさいけれど、やってみよう。
今のわたしにできることから、少しずつ。


ある朝ふっと、体が軽い日ができた。いつもはベッドからソファに倒れ込むだけだった朝一番の行動が、窓を開けてお日様の光をまっすぐに浴びると気持ちがいい。
持ってきてもらっていた朝食を自分で用意して、しっかり座ってパソコン作業をする。体が動くってそれだけでこんなに嬉しいことだったっけ。

わたしの体調が悪くてもつまらないことで笑い合っているけれど、良ければ良いでわたしのふざけ方が数割増しらしく、2人で笑い転げている時間が多くなる。
そんな日が少しずつ増えて、ちょっとだけなら家事をする時間も作れるようになった。
一緒にキッチンに立って、協力して料理を作る。
些細な出来事が、過ごす毎日が、この人とならどうしようもなく幸せなんだ。



今日は彼の体調が悪い。わたしが起きても彼は自室のベッドで気怠そうに横になったままだった。
「記念日おめでとう。」
朝一番のハグは珍しく彼のベッドの中で、お祝いの言葉は力なく床を這うように溶けていった。

今度はわたしが彼を助けてあげる番だ。
返していこう。今のわたしにできることは、きっとわたしが思うよりたくさんあるはずだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?