見出し画像

我が子のためではなく 自分のためだった

部屋の片づけをしていたら、息子が小さい頃の絵が出てきたんです。
「出てきた」という表現は正確じゃないかもしれません。小さい頃の絵を、取ってあった箱があって、その中身を確認したんです。

詳しいことは、見るまですっかり忘れていました。なので、ちょっと驚きました。

しまうま しまうまが くるまに のってるの。
くるくる、って のってるの。
(ハンドルまわす動作をしながら。)
もいっこ しまうま。(黒いクレヨン)

何に驚いたか。自分のマメさです。

きりんが どっぱどっぱきたよ。

絵を描いた日付。描いた時のシチュエーション。その時の話した言葉、そのまま。逐一、書いてありました。何枚も。何枚も。
わたし、いいおかーさんじゃん?!って思ったんですよね。

でも、観ていくうちに気づいたのです。
これは〈我が子のための成長の記録〉ではないんじゃないか。〈母である私自身のための記録〉なんじゃないかな、って。

絵だけを見れば「ぐちゃぐちゃ描き」のように思える1枚1枚が、私には、すごく嬉しかったんだと思うのです。日付を見れば、2歳の頃です。
息子自身は、自分で思い描いたものを描いている。それを言葉にすることもできている。動物が好きで、毎日図鑑を見ていたことが、絵に表れている。何度も一緒に読んだ絵本のフレーズもあります。

息子が好きなこと、楽しいこと、できるようになったことがリアルに感じられて、それを逃してはいけない、って思ったんじゃないかな。こんなにも成長した姿を、確かに残しておきたい、って。

「ぼうけんのぞうさん」
もりのぼうけん、なのだそうです。
(たぶん ぼうけんという言葉を
”何か未知の場所”の意味だと思っている。)
かあさんに「ぞうさんかいて」と言ったあと
色々な色をぬりたしていきました。
完成すると今までと同じように見えますが
塗る過程は、今までにない意思を感じました。

そして、息子の成長を実感することは、この頃の私にとって、何よりのご褒美だったんだと思います。
2歳なので、もう仕事にも復帰しています。平日は保育園にお世話になり、時短で働いていました。だから、息子の成長が生活の全てだった訳ではない。
それでも、我が子の成長を認識できる時間は、仕事とは全く違う軸での嬉しさや、自分が確かに関わっている実感を得られるものでした。

あの時の感情までは覚えていないけれど、たぶん、メモを書いている時間は楽しかった。我が子のためではない、私自身の喜びのために、書いていたんだと思います。息子に生かされ、息子のおかげで生活に彩りがあった毎日でした。(あ、今でもそうかな。)

今はすっかり大きくなった子どもたちですが、「母として、たくさん楽しませてくれて、ありがとう」と、思っています。ほんとに!


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?