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[書評]「それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと」(榎本空 岩波書店)


◆答はいずこ。どうしてブラック・ミュージックなの?

これからはブルースと共に生きていく!と熱にうなされてから、もう半世紀が経とうとしている。
今はもう、ややお熱がありますね程度ではあるけれど
「どうしてブルースが好きなんだろう」
「どうしてブラック・ミュージックに惹かれるんだろう」
疑問はいまだに胸の中にある。
そして、これという答をつかみかけては手から離れを繰り返し、言葉にする日を待っている。

そんなときに榎本 空 氏の『それで君の声はどこにあるんだ? ――黒人神学から学んだこと』(岩波書店)を読んで、おやと思った。

じわじわと共感線に響いてくる本だ。
共感線なんてものがあるのかどうかは知らないが
閉じた後も、離れず、手の中に筆者の言葉が居る。

◆ジェイムズ・H・コーン師が目指したもの

榎本空さんは、27歳のときマンハッタンにあるユニオン神学校の扉を叩く。「黒人解放の神学」を創り出したジェイムズ・H・コーン師に学ぶためである。

それほど惹かれたコーン師とは誰なのか。
榎本さんによる訳書『誰にも言わないと言ったけれど(「黒人の炎」を受け継ぐために ―― 黒人神学の泰斗、その人生のすべて)』(新教出版社)の一説を引用すれば
<イエスの福音と、黒人の苦しみという現実、そして公民権運動とブラック・パワー運動に代表される黒人の抵抗、この三つがいかに関係するのか>
を問いかけ続けたアフリカン・メソジスト監督教会の牧師であり、神学校の教授だ。

マルコムXのように黒く、マーティン・ルーサー・キングのようにキリスト教的なそれを目指したという。

ーー福音、黒人の苦しみ、公民権運動、ブラック・パワー
、マルコムX、キング牧師・・・・・

ブラック・ミュージックを聴いてきた私は、もう数え切れないくらい、この言葉を口にしたり、文章にしたりしてきた。
でも正直なところ、いつもすとんと賦に落ちているわけではなかった。

どうして黒人たちはキリスト教に救いを求めたのか。
聖人のように崇められているキング牧師とマルコムXをつなぐものは? 
どうして闘いを続けるのか。
むしろ、ブラック・ライブズ・マターでその疑問はますます深まっていったのだった。

◆この愛は闘いだぞ、わかるか?

当時、教室で学んでいた白人でも黒人でもない榎本さんなら尚更だっただろう。

<四○○年の歴史の重みも、四○○年のあいだ、黒人が唯一相続してきた収奪も、その中で培われた愛も霊性も知らぬ私>

講義に耳を傾けながら自らをこう表現した榎本さんであったが、それはまさにここ日本に暮らしながら、ブルースがどうしたゴスペルが、ブラック・ライブズ・マターがどうしたと言っている私自身のことに思われた。

そして
「私の中に共鳴し得る何かが眠っているのだろうか」
という榎本さんの疑問は
「どうして私はこんなにブルースに惹かれるのだろう」
という、これまで抱き続けた思いに通じるものだ。

しかし、私は次の一文で、ぐっと息を飲んだ。

「この愛は闘いだぞ。わかるか?」

黒人が自らの黒人という存在を愛し、自分の人間性を認めることだと確信するコーン師は強く問いかける。

しかし、私は「YES!」と無邪気に両手をあげることはできなかった。愛と闘いが結びつかずにいた。
自分を愛すること。自分を認めることこそ
生きていく力になる。それは分かる。
だけど、人生相談でよく耳にする自己肯定感って言葉で
ひとくくりにするのも違わないか。
闘う相手が私には見えているのか?

◆受け容れる。自身と乖離しないから、この本には力がある

事実、コーン師も、黒人以外の者が背負ってきた悲しみや痛みを理解するのは難しいと、著者に釘をさしている。

分かってはいることだが、面と向かって言われたなら心の奥底に沈んでそれっきりになってしまいそうだ。
私ならそりゃそうだよなと、腐って諦めるかもしれない。

しかし、榎本さんはそれを受け入れ、受け止めていく。そして育った伊江島や、尋ねた台湾での体験を思い起こしながら「自分の声」を見つけていく。この本は、ここからが本番だ。

著者の榎本空さんは1988年生まれの30代。
だが、まるで老成しているようにも感じるし
必要以上に人生におろおろとうろたえているようにも見える。

でも、そうしたありのままのとまどいと、生きることへの素直さを土台にしているからこそ、この本は「福音、黒人の苦しみ、公民権運動、ブラック・パワー、マルコムX、キング牧師、ブラック・ライヴズ・マター」をリアルに伝えてくれる。

距離が縮まりようもない、黒人の歴史を俯瞰するのではなく、自分の中につながりを求めた。つまり、声を聞いていく。それがブラック・カルチャーをテーマにした今までの本とは異なる感動を呼び覚ましてくれる。

もう一つ、この本は音楽がテーマでないにもかかわらず、静かに力強く音楽が浮かび上がってくる。

「もしギターが弾けたなら彼はきっとB.B.キングやマディ・ウォーターズのようになっていただろうし、歌がうたえたならジェイムズ・ブラウンかメイヴィス・ステイプルズだったろう。トランペットが吹けたならルイ・アームストロングだったろうし、ピアノが弾けたならメアリー・ルー・ウィリアムスだったろう」

「それで君の声はどこにあるんだ?」P143

この文章から、コーン師の声が聞こえ、語る姿も見えるような気がしないだろうか。

黒人が自分の存在をしっかり掴み取るためにブルースを唄いゴスペルを歌い、楽器を奏でたのが彼らであるなら、逆にギターが弾けなければ、B.B.キングやメイヴィスやサッチモは神学を説いたのかもしれない。

歴史を紐解き、理屈を積み重ね、あるいは理屈でねじ伏せる手法はあったけれど、こんな風にブラック・ミュージックをの背景と意味を鮮やかに感じさせてくれた本は初めてだ。

◆メンフィスでの私の体験~自分は間違っていなかった

ページをめくりながら、私はメンフィスの国立公民権博物館を訪れたことを思い出していた。ご存知のとおり、キング牧師が暗殺されたロレイン・モーテルを利用したミュージアムである。

英語を読むのに時間がかかるせいもあるが、じっくり一つひとつの展示を辿るといくらあっても時間が足りなかった。

ただ無言で迫ってくる歴史と向き合いながら
「ブラック・ミュージックを好きになった自分は間違っていなかった」と力が湧いてくるような感覚を覚えた。

この音楽が好きでよかったと思えた。自分と音楽が重なった瞬間だった。
私が惹かれたのは、音楽であると同時にそこに居る人であった。自分らしく、人間らしく在りたいとさまざまな形で抗った人たち。理解することは難しくても、自分自身が大事にしていることと通じるものはある。

一方で、おそらくはアフリカン・アメリカンであろう人たちと一緒にフロアに居る自分に気づいたとき怖くなった自分もいた。
この人たちはどんな思いでここにいるのだろう。おそらく私には分からない何かを感じているだろう。
それじゃ、おまえはどうしてここに来たんだ? 何を感じとるんだ? 自問自答が続く。

もやもやを抱えながら、確かワシントン大行進の写真の前を通り過ぎようとしたときだ。
「この中におばあちゃんがいるんだよ」
女の子の声が聞こえた。目のくりくりした黒人の女の子だった。
私はもう一度、写真を見返した。列を成す大勢の人たちの中の誰が彼女のおばあさんなのかは、もちろん分からない。でもただの一枚の写真に血が通ったようで、私は少なからず震えるような感動を覚えていた。

あれが何であったのか。榎本さんによるコーン師を尊敬する理由を読み、なんとなく分かった。私はある意味、余生に一歩踏み入ったと言えるのではないだろうか。

私が彼を尊敬するのは、彼の神学や思想にも増して、この引き受ける態度とでもいうべきもののゆえである。自分が据えられた、いくつもの支流が交差する川の水を、そっと汲み上げること。先にいなくなった者たちの残余の声を拾い集め、彼らの余生に一歩踏み入ること、つまり、自分という存在を掴み取ること。それをひとつの解放と呼ぶのではないか。

P129「自分の声」
メンフィス 国立公民権博物館にて

◆永遠の土曜日とグローリー、ハレルヤ

コーン師と並び、一回り若いアフロへアに髭をたたえたコーネル・ウエスト氏の授業でのやりとりも印象深い。

マディ・ウォーターズのように咽ぶことも、スライ・ストーンのように怒りに洗練されたリズムを与えることも、ジョン・コルトレーンのように複雑な事象と狂気を、それを損なうことなく、しかし美しさと愛でもって表現することも、自由自在だった。

P66

特に印象深いのは「グローリー、ハレルヤ」の意味を問う場面だ。

苦しみを歌いながら、グローリー、ハレルヤ!と喜びを表すのはなぜなのか。

土曜日はイエス・キリストが十字架に張り付けられた金曜日と復活の日曜日の間にある、暗い日だったこと。アメリカ黒人が経験してきた四○○年とは土曜日の連続であったこと。

それら絶望を押し返すための「グローリー、ハレルヤ」なのだという。

“Stomy Monday Blues”では週給を手にバカ騒ぎするパーティの夜が土曜日であり、日曜日には教会でひざまずいて祈る。

1週間を歌う、なんてことないブルースだと思っていたが、「土曜日に、私たちはいかなる人間になるのか問うのだ」と聞いてからこの歌の意味を考えると、何やらとてつもなく重いものが沈んでいるようにも思えてくる。

◆ブラック・ミュージックと響き合うことば

「それで君の声はどこにあるんだ?」

本を閉じた後も黒一色の表紙から、白い文字が問いかけてくる。

「私の声はここにあります」
とは、まだ胸を張って言うことはできない。
でも、なぜ私が半世紀もブルースを聴き続けているのか。
なぜブラック・ミュージックだったのか。
私の中に見つけた、その答を言葉にしたい。
その思いは強くなった。

私の中でグローリー、ハレルヤを歌う声が聞こえる。

今日は土曜日か、日曜日か。
いずれにしても自分の声で語っていこう。


「それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと」(榎本 空 岩波書店)

https://www.iwanami.co.jp/book/b605125.html


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