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吹奏楽コンクール

全国3000万人の吹奏楽ファンの皆様、こんにちは。

今年は例のヤツのせいで、吹奏楽コンクールがなくなってしまい、夢を砕かれたまま引退するという中3、高3、大4の皆さんも多いかと思います。

ウチの娘も今年高3で、最後のコンクールで絶対にゴールド金賞を取る!と意気込んでいたのに、早々と中止が決定してしまったものですから、途端に意気消沈し、オマケに3月から5月いっぱいまで課題出るというものの自宅待機だったせいで、パソコンやスマホばっかりに依存する毎日を送った挙句、視力が急落してメガネっ娘になってしまうという副作用まで生み出してしまいました(-_-;)

何とか毎年8月に開催されている定期演奏会だけは、規模を大幅縮小して開催出来たものの、2年半頑張ってきた娘のラストステージとしてはどうしても寂しいものになってしまいました。

もちろん吹奏楽部に限らず、ほかの部活も各種大会が中止になり大ダメージを受けたのは存じてますが、体育会系の部活の救済措置大会ばかりがテレビで取り上げられていて、吹奏楽部や他の文化部なんて相手にもされていないのは、親としても悔しいですね(-_-;)

昨日の富山県内ローカルニュースの中で、体育系の部活の富山県大会を特集していたんですが、どこかの高3生がインタビューを受けて

「忘れられない最高の思い出ができた夏になりました」

と見本のような回答をしているのを見て、娘が珍しく怒りを露わにしていました(゚◇゚;)

「どこが最高の夏なんよ!春先延々と休まされて視力は落ちるし(←ここは八つ当たりですな)、部活の練習時間もないし、コンクールの代替大会もないし夏休みは10日しかないし、最低の夏だわ!」

だそうです(;´▽`A``

私くらいの年齢になれば、まあまた来年…という考えも出来ますが、学生の皆さんにとっては1年単位での勝負ですから、今年は運が悪かったけど、まあまた来年、ってな考えには至らないんですよね。

なので私も娘の怒りに、そうだね、そうだねと相槌を打つくらいしか出来ませんでした…。


閑 話 休 題


さて私が現役学生として吹奏楽コンクールに出場したのは、中学2年の昭和59年~高校3年の昭和63年の5年間でした。

中2の時のコンクール会場は呉市。

しかも私が初参加なら、母校の中学校吹奏楽部も十数年ぶりの出場ということ(前年の昭和58年までずっとコンクールには出ていなかった)で、事実上の初出場みたいなものです。

ですが、今と違って昔はコンクールの日程が遅かったんですね。

私が初めて出たコンクール(中学校B部門)は、なんと昭和59年8月31日の開催でしたΣ(゚□゚*)

翌日は2学期の始業式です。

全国大会とかならいざ知らず、県大会でこんな遅い日程って…(苦笑)
しかも当時のパンフレットを見ますと、全体の実施期間の最終日は9月1日(高校の部)。

2学期の始業式当日にやるの?と、ビックリした覚えがあります(笑)

ですがこの事実上初出場のコンクールにおいて、我が母校、大竹市立小方中学校は、B部門ながらゴールド金賞を獲得しました\(^o^)/

恥ずかしい話、まだコンクールの金、銀、銅の各賞の位置づけがよく分かってなかった私は、広島県内のB部門で1位なんだ!と錯覚したのでした(笑)

でもこの時の金賞が嬉しくて、それまで何処か義務的に参加していた吹奏楽部の活動を、積極的に参加するようになりました。

この時に銀賞、銅賞だったら、絶対にその後のモチベーションが違ってくると思いますし、私自身ここまで吹奏楽にのめり込んだかどうか不明です。

ちなみにこの時演奏した曲は、「序曲『祝典』」。後半一小節だけ、私のバリトンサックスのソロがあったので、他は間違えても、そこだけは絶対に間違えないようにと、超緊張していました(^▽^;)

これで吹奏楽の魅力にハマった私は、顧問の先生の推薦で途中入部ながら部長に抜擢され、中2の12月から中3の11月まで部長職を務めることとなりました。

中には快く思わなかった方もいるでしょうけど、あまりそういう雑音は聞こえてきませんでした。顧問の先生がシャットアウトして下さっていたのだと思います。


そして翌年夏、昭和60年の吹奏楽コンクール広島県大会は、庄原市という広島市よりも山陰地方のほうが近い場所で行われました。

昨年B部門で金賞取ったから、勢いに乗ってA部門だ!と先生と一緒になって張り切りました。

開催日程は前年より1週間ほど前倒しされました。
そりゃそうですよね、2学期が始まってるのにまだ県大会やってるなんて(^_^;)

この年に演奏した曲は、A部門ということもあって、課題曲には「波の見える風景」を、

自由曲には「音楽祭のプレリュード」(昭和45年の課題曲)を選び、挑みました。

結果は「銀賞」。やはりいきなりA部門に出て、ゴールド金賞を取ろうってのは難しかったです。

特に「音楽祭のプレリュード」は、前年から依頼演奏など、演奏会を行う機会があるごとに吹いていた曲なので、みんな正直言うと飽きていたという、驕りみたいなものがありました。

最初に自由曲を決める際にも、「アルヴァマー序曲」がいい、「春の猟犬」がいいとか、意見は出たんですが、顧問の先生はまだそんな曲をこなせるほど上手ではないと判断され、「音楽祭のプレリュード」に決まった経緯があります。

余談ですが、私が部長だったからか、「音楽祭のプレリュード」を他の曲に変えるよう、先生に直談判しに行けと、突き上げを喰らった覚えがありますよ(苦笑)
でもまあ、それだけみんな熱意があったということですよね。


プライベートでは本当に激変に次ぐ激変だったその後の1年間でしたが、無事に志望校に進学でき、迷わず吹奏楽部に入り、迎えた夏のコンクールは、高校だとA部門の方が当たり前みたいな感がありまして、私の母校、廿日市西高校もA部門にエントリーしました。

選んだ曲は課題曲が「嗚呼!」

自由曲は「クイーンストーン序曲」でした。

結果は「銀賞」。
課題曲も自由曲も、正式にこれでいくと決めたのが遅かったのが、災いしてしまったような気がします。

課題曲は「コンサートマーチ・テイクオフ」を吹きたいという勢力がいたのと(笑)、自由曲は、私は知らない出来事ですが、昨年のリベンジを果たすために「サムソンとデリラより~バッカナール」をもう一度やりたい!という先輩方の執念があったので、顧問の先生も苦心しておられました。

ちなみに「クイーンストン序曲」は、私がバリトンサックスを吹き始めてから、一番の難曲でしたp(;_; )q
フルートやクラリネットなら当たり前のような16分音符の旋律が、これでもか!と散りばめられていたからです。

オマケに、その時のバスクラの子が初心者で、コンクールまでにあまり上達してなかったんですね💦
そのためバスクラのメロディを移植したりして、休む間が殆ど無いという譜面になってしまいました。

今でも昭和61年の夏のコンクールは、練習不足だったなぁと思います(苦笑)


さて私の吹奏楽人生を語る上では欠かせない、高2の夏!
この年も激動の年で、私は中2以来吹き続けてきたバリトンサックスから、打楽器へと移籍してコンクールに臨むこととなりました。

詳しくはコチラ ↓ ↓

詳しくは既に書いているので書きませんが、とにかく高2の夏は人生で一番吹奏楽に燃えた夏でした!

選んだ課題曲は「風紋」

自由曲は「オーストラリア民謡変奏組曲より第3楽章・第4楽章」

「風紋」はこの夏に、打楽器に移籍して毎日のように汗だくになって練習に取り組んだ思い出のある曲で、私の知る吹奏楽曲のベスト1です🎵
カセット、CD、MD等々で、これまで何度聴いただろうか?恐らく数千回では足りないと思います(;´▽`A``

吹奏楽なんか興味ねーよって方も、騙されたと思って5分少々、「風紋」を聴いて下さい。
心の底から名曲だと感じる、課題曲という枠には収まらない曲です!

更に自由曲として取り組んだ「オーストラリア…」も、第3楽章はともかく、第4楽章は7/8拍子とか出てくる難曲で、全体のリズムをリードしなきゃならない打楽器としては、底力が試される曲でした。
ですが7/8拍子などはやっぱり難しくて、合奏でもそのリズムの部分に来ると、すぐみんなバラバラになってしまいます。
そこで先生が言ったのは、

「ブタブタコブタ」と数えろ

緊張していた合奏で、みんなが噴き出した瞬間でした(* ´艸`)
でもこのお陰で、リズムを取りやすくなり、合奏もまとまるようになったので、流石先生は凄いと思いましたね(`・ω・´)b

高2の夏、昭和62年の夏を捧げた吹奏楽コンクールでしたが、結果は「銀賞」

やっぱりゴールド金賞には届かなかったか・・・とガックリしていたんですが、審査員の先生方の講評が届けられ、先生と一緒に読むと、結構A判定が多かったんです(5~6項目あって、それぞれにA,B,Cの判定、更に時にはA+、B-とかもあります)。
その年の基準を見ていたら、我が母校はA判定があと2つあれば、ゴールド金賞に届いていたことが分かり、本当にあと一歩だった「銀賞」でした。


そしていよいよ昭和63年夏、高校生活最後の吹奏楽コンクールに挑みました。
同期の半分は、大学受験に備えるためといって、4月で引退していきましたが、私は「出れる機会があるんだから出なきゃ悔いが残る」と思い、コンクールまでの残留を決めました。
何とか一度は高校でゴールド金賞を取りたかった思いもありましたので(^▽^;)

またコンクール直前には、今度はサックスの人数が足りなくなり、私は打楽器で出る気満々だったのが、バリトンサックスに復活しての参加となるハプニングもありました。

そんな高校生最後のコンクールで選んだ課題曲は「交響的舞曲」

自由曲は「ウィンザーの陽気な女房たち 序曲」を選びました。

結果は「銀賞」
遂に高校時代には、ゴールド金賞には手が届きませんでした( ノД`)

しかもこの年は審査員の評価が全てB。
B+も、B-もない、銀賞の王道のような評価<(;´ー`)

私自身も受験勉強を同時並行させながらの練習でしたので、前年のように全力を燃やし尽くしたか?と言われると、ちょっと足らなかった部分があります。

また本番直前にバリトンサックスのリードが割れるなど、アクシデントにも見舞われ、本番で上手く音が出なくなったという負い目もあります。

なので、この年のコンクールの曲をやり直してみたいという希望はありますね~、もう叶わないけど…。

でも最後のコンクールに一緒に出てくれた同期のみんなとは、今でも交流がありますよ(^^♪

中高大と懐かしい広島での学生時代を通じて、一番今でも繋がりが多いのは、高校の吹奏楽部OBです(o^―^o)

吹奏楽に出会って良かったし、今でもまだステージに立ちたいという欲望を密かに持っています(*ノωノ)

こんな何年経っても思い出せるエピソードを紡ぐ、吹奏楽コンクール!

来年は是非開催して、学生のみんなの心に素敵な思い出ができますように!

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