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第二の故郷・広島

横浜から広島へ

私は富山生まれで、現在も富山で窓際社会人生活を送っていることは、普段の記事で「富山」「富山」と書いていることで、皆様にも嫌でも伝わっていることと思います(苦笑)

また富山で就職する前には、広島県で学生時代を過ごしていたことも、しょっちゅう書いているので、これまた皆様にはもういいよ!とばかりにご存じでいらっしゃるかと思います(;^_^A

今回の話は、その広島の前に住んでいた横浜から始まるのですが、私の父が転勤族だったため(と言いつつ、2~3年単位で全国各地を転々とするほどではありませんでした)、私は生後50日の首もまだ座ってない頃に、富山から横浜へと引っ越しました。

そんな時期に転勤命令を発する父の会社も、今の世の中だと問題になりそうですが、この頃は許されていたんですかね(^_^;)

私が両親を尊敬しているのは、生後50日の赤子を連れ、見知らぬ土地へ引っ越し、父は懸命に働き家族を養ってくれ、母は知り合いもいない土地で泣き喚くしか意志の伝達手段がない私を必死に育ててくれたこと、この点が原点です。

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そして物心付いた頃は横浜市民だった私(;^ ^;)>

父や母は私を喜ばせようとして、当時の最寄り駅の三ツ境駅(相鉄線こと相模鉄道の駅)へ、電車を見せに、よく連れて行ってくれたものです。

お陰様で立派な鉄男に育ちましたよ、お父さん、お母さん!(笑)

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そして横浜で笹野台小学校という小学校を卒業し、そのまま横浜市民だったら希望ヶ丘中学校へ進学予定だったところ、横浜生活11年と半年というタイミングで、父に次なる転勤辞令が下りました。

それが広島県大竹市という地でした。

以前、横浜から広島へ引っ越した際の顛末は記事にしておりますので、よろしければお読み下さいね(^ ^)

さて横浜という便利な街に未練はあったものの、小学校のクラスの大半の女子に嫌われていた私( ;∀;)←別に何もしてないんですが、顔がキモイと言われてまして…(´Д⊂ク

広島と言う地で生まれ変わってやる!の一念で、引っ越しに大賛成したのを覚えています。

初めて広島県大竹市に現れたのは、昭和58年3月26日でした。

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( ↑ 広島県大竹市で住んでいた社宅)

最初は玖波と言う駅で下車し、駅前の淋しさにやや愕然としたのですが、中学校に通い出す前に自転車でアチコチ走り回り、当時の私には欠かせなかった本屋さんを見付け、毎日立ち読みに行ってました。

そして中学入学前に、入学予定の大竹市立小方中学校へ母と挨拶に行き、校長先生に温かく出迎えてもらえたことを今でも覚えています。

早速入学にあたって必要なものを買い、制服も特急仕上げで作って頂き、入学式を迎えました。

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どうですか、37年前の私です(*ノωノ)

幼いったらありゃしない💦

でも私は、この地で成長するんだ!という意気込みを持って、中学校生活をスタートさせました。

私の中学校の母校、小方中学校は、私が住むことになった社宅から歩いて20分強。

駅名にも採用されている「玖波」中学校というのもあったのですが、実はそこへは歩いて10分。

学区制度のせいで、近くに中学校があるのに~と思いつつ、毎日片道20分強かけて、登下校していました。

その中学校の入学式は、4月8日でした。
当然誰も知り合いがいませんから、ポツンとしています。
その中で早速自己紹介をさせられたのですが、

「横浜市の笹野台小学校から来ました…」

と挨拶したら、ちょっとしたどよめきが起きました。
多分、横浜などという所からなんで新入生が?という感じだったと思います。

するとその小方中学校には、色々な小学校から生徒が集まっていたのですが、横浜から来た奴がおる!と、恐らく一番在籍率の高い小方小学校卒業生ネットワークに、広がったんでしょう。

翌日になると私のクラスに、横浜から来た転校生って誰じゃ?とばかりに、見学に来る同級生が発生しました。

その中に、生涯忘れられない初恋相手の女の子がいた訳です。

他の同級生は、ふーん、アイツかぁ、みたいな感じで一見して戻っていくのですが、

「ねえねえ、キミ、名前なんて言うの?!もしかして、芸能人の見栄晴に似てるって言われたことない?」

と、声を掛けてくれた女の子がいたんです。

私は小学生時代は、女子は敵、と思っていたので、女の子からそんな親しげに話し掛けられることなんて、免疫がありません。

「えっ、いやっ、そんな…」

とドギマギしていると、

「なんか可愛いね、キミ!ねぇ、ミエハルくんって呼んでもいい?」


私の人生を回顧する際に外せない、他人から言われた言葉のトップに君臨するこの言葉!

こんなこと言われたら、女子に対する免疫のない私は、あっという間に初恋に落ちてしまいました((ノェ`*)っ))タシタシ

横浜から来た得体の知れない転校新入生のあだ名は、自分でも知らぬ間に小方中学校の中を駆け巡り、あっという間に先生方にまで浸透するあだ名となってしまいました。

後に卒業式の際、吹奏楽部の後輩女子からは、

「先輩の下の名前、見栄晴だと本当に思ってました!」

と言われるほどでした(n*´ω`*n)

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(卒業式の朝、撮った写真です。いや~、成長しましたな)


このあだ名のお陰で、中学生活もトラブルが多少あったものの順調に送れ、高校に入った時もすかさず吹奏楽部の先輩や、クラスメイトの女番長から

「見栄晴に似とるー」

と指摘を受け、あっという間に高校でも「ミエハル」と呼ばれるようになりました。


初恋はミジメに終わりを迎えたのですが、初恋相手の女の子が付けてくれたこのあだ名のお陰で、本来は知り合えなかったような方からも声を掛けられたりしまして、横浜では女子に嫌われていたキモイ顔が一躍私の知名度アップに貢献した訳です。


そして父に最後の、富山へ戻れという転勤辞令が下りたのは、私が大学に入ったばかりの平成元年の春。

私は大学受験は1勝4敗を喫し、唯一来ていいよ♪と声を掛けて下さった大学へ自宅から通学していたのですが、両親が富山へ戻るとなると、一人暮らしを余儀なくされます。

慌てて探したアパートでしたが、大学へ通うことの利便性、暮らしやすさを考え、広島市佐伯区五日市のアパートを借り、卒業までを過ごすこととなりました。

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これは去年開催された、高校卒業30周年記念第同窓会で広島へ出かけた際に撮った、私が19歳から22歳までを過ごしたアパートです。

私が住んでた時も既に年季が入っていましたが、まだこのご時世でも立派に取り壊されることなく健在だったことに、感涙を禁じ得ませんでした(´;ω;`)ウッ…

このアパートで生まれた物語も沢山あります。

一人暮らしゆえに味わった思春期の喜怒哀楽が、この建物に詰まっています。
どうか1日でも長く、このアパートが現存しますように…。


私が広島で過ごしたのは、中学1年から大学4年までの10年間で、今年50歳になった私からしたら、人生の1/5の期間でしかありませんが、こんな濃い1/5は無いと断言できます。


初めて胸が熱くなるほどの恋を経験し

初めて彼女が出来て最高の幸せを感じ

初めて彼女にフラれこれ以上ない悔しさを味わい

初めて吹奏楽に触れ、部長を2度経験し人間関係の難しさを学び

初めて一人暮らしを経験し両親のありがたみを知り


そして


今でも沢山の繋がりがある町。

今でも再会したら「ミエハル」「ミエ君」と呼んでくれる友がいる町。


そんな思春期を過ごした大好きな街、広島は、心の故郷、私の第二の故郷です。



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