カタール人の海苔巻き #1

8月の夜、最後のチェックインのお客さんからは、甘ったるい香水の匂いがした。

「ほんとに来ちゃった。朝起きたら急にどこか遠くに行きたくなって、日本にしよう!って思ったの。すぐに飛行機のチケットを取って、荷造りをして、家を飛び出してきたわ。ここの宿はさっき飛行機の中で予約したんだけど、できてるよね?」

差し出された携帯の予約完了画面を確認すると、ホステル「Danro」の名前と、今日の日付、確かに数時間前に入ってきた予約者名が揃っている。

「ありがとうございます。今日はどちらから?あ、本人確認のため、パスポートの提示をお願いします」

赤一色に染められた艶やかな爪。ゴールドに統一された複数の指輪。アクリル絵の具でベタ塗りしたみたいな、斑のない肌が視界に入る。彼女の答えを待つ前に、手がとても綺麗ですね、と率直な感想を伝えようか迷った。

小さな黒のショルダーバッグから出されたパスポートは、このホステルで受付スタッフとして働き始めて4ヶ月、様々な国からの宿泊客を迎えてきても一度も見たことのないものだった。えんじ色の表紙に金色に輝くアラビア語がとても似合っている。

「カタールのドーハよ」

カタール。中東の国だ、ということしかわたしには分からなかった。アラビア語を話す人にも、中東の国の人にも出会ったことはない。

東京や欧米の大都市の雰囲気とは違う、わたしが頭の中でイメージする見慣れない形のビルが聳え立つ煌びやかな街は、実際に存在しているのかも分からないほど、遠い遠いところのように思える。

「ご提示ありがとうございます。遠いとこから、すごいですね。何時間くらいかかりました?」

パスポートの顔写真のページを開いて、スキャナーに通す。

「家を出てから16時間ね。意外と早いわ」

朝起きて、16時間かかる場所まで行こうと思い立ったことはないなと思いながら、パソコンの画面上で彼女の名前と部屋番号を一致させる。

30代前半くらいだろうか。受付カウンターを挟んでもしっかりとこちらまで届く香水の匂いといい、少しのズレさえ許されなそうな、完璧に引かれた黒のアイラインといい、この人は本当に長旅をしてきたのだろうかと疑ってしまうような容姿だ。

「全然早くないじゃないですか!でも、なぜ東京に?」

「なんとなくよ。行ったことなかったから。わたしのベッドの頭の上に大きな世界地図が貼ってあるんだけど、それをぼんやり眺めてたら、日本に行きたいなと思ったの」

すごい。世界版ダーツの旅のように生きている人が、本当にいるんだ。

昨日の夜「いつものところで飲んでるけど来れない?」と高校時代の友達から連絡があったが、ベッドから抜け出してメイクをする気になれず「明日朝早いんだ、ごめんね。また誘って!」と返したことを思い出す。

この人は何の当てもなくドーハから東京へやって来て、わたしは人に呼ばれていても電車で10分の新宿へ行けない。そういうことだ。

「なんだか憧れますそういうの。では、お部屋のご説明をさせていただきますね。こちらがお部屋の番号とwifiのパスワードです」

最近「憧れます」と言うのが上手くなった。
「羨ましいです。」とは少し違う、「憧れます。」

「wifiは大丈夫。さっき世界中で制限なしのプランに変えておいたわ」

「そうなんですね、じゃあ大丈夫ですねー」

慣れていない返答に驚いていないふりが、逆にわざとらしくなっていないか気になった。海外からこのホステルDanroにやってくる多くの宿泊客は、旅費をいかに削るかがかなり重要であり、通信にお金をかけず、宿泊先や街のフリーWifiだけで生き延びようとする。そのため、到着するや否や、名前よりも用件よりも先にwifiのパスワードを食い気味に聞かれることが良くあるのだが、目の前の彼女からは「わたしはそれには当てはまらないわ」と訴えるかのような、すんとした余裕が漂っている。

「共有シャワーは24時間お使いいただけます」

「バスタブはないの?」

「申し訳ございません。当ホステル、シャワーのみで、全て他のお客様と共有となっております」

考えてみれば、ドーハから東京の直行便をその日に予約できること。どれくらいの間日本にいるつもりなのか分からないけど、急に長期期間予定を空けられること。視界に入る分だけでも持ち物のほとんど全てに付いている、ブランド物のロゴ。テレビの中で見る富裕層の印象が、どうしても彼女に纏わり付いていく。

ホステルなんかじゃなくて、高級ホテルに行くべきだったんじゃないか。飛行機の中で宿を探していたから、予約サイトの説明文や値段の0を1つや2つ、見落としていたのだろうか。それとも本当に、行き先の全てを直感で決めていて、どこでもよかったのだろうか。

「まあいいわ。ここにはしばらくお世話になるつもりよ」

彼女が暮らす家や街について勝手な妄想を繰り広げるのに忙しくしていたら、彼女が自分に笑いかけていると気づくのに少し時間がかかった。

「だからさお姉さん、色々教えてよ。後でわたしの1週間分のプラン、一緒に考えよ」

すん、としていた紛れもない美人から、少女の面影が現れた。
いや、少年という方が正しいだろうか。直感に任せて到着した東京でこれから始まる生活に胸を躍らせる彼女は、誰にも邪魔されずに秘密基地の開拓を計画する少年だった。

なんか憎めないお嬢様っているよなあと思って、「何かあればぜひ、お声掛けください」と笑い返した。


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