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back number『高嶺の花子さん』の新解釈について

序論:概要と先行研究、その問題点、提起

1.概要

 『高嶺の花子さん』は、2013年にback numberがリリースした同バンドの代表曲である。その深い共感性とせつなさが世の水平に波紋を起たせ、カラオケでこれを歌っておけば間違うことはない[1]。

2.先行研究

 特にこの曲の共感性についてはすでにインターネット上で多くの考察が為されている。2022年10月26日現在、Googleで「高嶺の花子さん 意味」で検索をかけて発見した上位3リンクの考察では、「この曲は叶わぬ恋について歌った曲」[2]、「深くて切ない、自虐的でありながらどこか共感をしてしまう」[3]、「妄想ワールド広がる「片思い男子」の心情」[4]と、実際、共感性についての議論が中心となっている。ところで、上記3つの考察においては、この曲の根幹について、ある共通した理解があると言ってよい。つまり「妄想」である。高嶺=花子を求める主観=歌い手の男子は、その想いと現実的な実力のギャップに悩み、パラノイア的に妄想する。曲1番ではパラノイアの<外的な>現状を、2番ではパラノイアの<内的な>症状を診断し、それを歌うのである。これまでの『高嶺の花子さん』についての考察においては、上記のような「パラノイア」=「妄想」を根底に記事が書かれてきたのであって、巷での大衆での考察もまた、同様にされている。

3.問題点

 パラノイアとはどういう症状であっただろうか。まっさきに思いつくのが、スターリンの例であろう。彼の症状は、しかし、ここで問題にされる事柄ではない。彼は<疑心>であって、<妄想>はその諸様態のうちの一つと認められうるにすぎない。ここでいうパラノイアとは、統合失調症の「緊張」と「妄想」である。中村(2022)によれば、統合失調症の「病型は大きく3つに分けられており、意識低下や感情の平板化が中心で、思春期から青年期にかけて発病することが多い「破瓜(はか)型」、極度の緊張や奇妙な行動が特徴で青年期に発病する「緊張型」、幻覚や妄想が主体で30歳前後に発病することが多い「妄想型」」[5]がある。彼女を想うあまりの極度緊張が、後者の妄想に波及したと考える。
 曲1番と2番を比べれば、もはや別人とさえ感じられるほどの、主観=歌い手の人格的な<乖離>を観察できる。緊張のあまり<精神>が<分裂>したのである。
 しかしここで問題なのは、もはやここまで乖離した人の、前後で本当に同一人物であると言えようか。ここまでの分裂者が、2番「いや待てよそいつ誰だ」で、「しかし、ここで”僕”は自分の気持ちに立ち返ります。~(中略)~現実に立ち返った」[2]のだ、と、パラノイア的妄想から一時恢復したなどと、なぜそれほどに3つの記事とも断言できるのか。
 というのも、これはある人物から花子に対して当てられた最愛だからである。絶世の美男ナルシスは自らの肢体に見ほれそれを見続けようと鏡の水面から身体を離すことができず、ついに餓死に至る。これは自己愛の例であるが、これが他己愛についても起こるのである。その時の最愛の人は、その時点ではあなたにとって絶世の美女である。なればある人からの花子への愛は、もしその人の中で、妄想で死にながら花子を想えという悪魔の声と現実へ引き戻してくる天使の声が両方存在する場合には、なんてことのないものだということになってしまう。しかし、実際には、ある人にとって、相も変わらず花子は絶世の美女なのである。
 よって、もとより、上記で取り上げた3つの記事や、巷で交わされている考察のうち、主観者に対する分裂症分析の様相を呈しているものは、立ち行かないように思われる。直感からして、叶うかどうかすらわからない恋にまさに直面している現実に時折戻ってくるような、<柔らかい>軽度のパラノイアであるはずが、これほどに思い悩んでいる彼の心境を歌詞から察するにおいては、まったくありえないとも感じられる。

4.提起

 上記からして、新しい歌詞の解釈が必要になる。ここでは従来の分裂症分析的な考察から目を背け、新たに「時間論」、「複数登場人物」を仮定し、epoch-makingな曲理解を試みる。

本論:この曲の真なる深淵の特定

5.二人の主観

 いま、曲の歌詞から、本当の登場人数を確定する。

 1番A全体からB終まで、すなわち最初の歌詞から「魔法とやらの力で 僕のものになるわけないか」までをAクラスタとする。またAクラスタ直後すなわち「君の恋人になる人は」から「僕のものに」まで=「この胸の焦りに身を任せ」直前までをBクラスタとする。以降の全歌詞をCクラスタとする。いま、A, Bそれぞれについての歌い手の主観をA主観、B主観、さらにA主観, B主観2つを綜合した主観を総主観と呼称する。便宜的に歌詞「友達の友達」を「[友達]の{友達}」と表記することによって区別する。

 さて、ここで注目されたいのは、A, Bの2クラスタの差異である。もっと特定的に提示するならば、opti-pessi対照とでも呼べるようなある対照性である。
 まずAに関して、歌い手=A主観の所有者であるのは{友達}であり、「知人B」である。このAに関しては、歌詞全体が<花子>礼賛歌であり、さらに吟味されたいのは、愛情=熱に浮かされるように「見たい となりで 目覚めて おはようと笑う 君を」とまで発言した。この浮ついた発言からは、恋愛成就の現実の壁がいかに高かったとしても、諦めがつかないその内心を垣間見ることができる。これはいわば楽観的optimisticである。
 他方Bについてはどうだろうか。此方ではAとはまったく対照的に、悲観的pessimisticである。「君の恋人になる人」を妄想するのにふけっている。
 ここは少々複雑な論の展開である。B主観での妄想を仮定したとき、さらに総主観をただひとりによって構成されている、つまるところA主観, B主観それぞれの歌い手を同一人物とみなすならば、序論「問題点」で指摘したように、やはり無理が生じる。よってここでは、この無理を解消するための2つの途がある。ひとつは妄想でないと仮定し直すこと、もうひとつはA, Bの歌い手をそれぞれ別の人物に帰すると仮定し直すことである。前者は、相当"部分的に"不可能である。歌詞「モデルみたいな人なんだろう」からわかるように、2番冒頭からあるところまでは、花子の彼氏を推定する妄想であることを否定することはできない。ここでこの議論をより明朗にするために、前者の可否についての議はいったん保留して、後者を考える。これはまったく可能である。可否性で語るなら、それにたいする確かな根拠、つまり1番の歌詞と2番のそれが地続きであることを示すような歌詞部分が存在しないからである。さらに序論「問題点」で指摘しているように、<乖離>が在り、まったく別人物のように感じられる。よって後者をいったん仮定し直し、「A, Bの主観はそれぞれ別の人物に帰する」としよう。さて前者の議に戻ると、後者の再仮定により、いま、ただB主観のみを所有する人物がたしかに存在するのであって、さらにその人物の部分的な妄想を仮定するならば、この歌詞から推察されるその人物は、一人に絞られる。
 つまり「{友達}=A主観の所有者」の友達=[友達]こそ、B主観の所有者であるとすぐさま推定される。1番歌詞「友達の友達」の最初の「友達」という単語が指す人物である。この推定を正しいと仮定する。

 よってここで結論される仮定を纏めて定理とする。
Theorem1「1番を歌うのは{友達}であり、2番を歌うのは[友達]である」

以降、明朗快活のために、{友達}をX、[友達]をYとする。

6.時間論からの議論

 Theorem1から、花子は少なくとも2人から好かれていることになる。とすれば、どの時期からX, Yは彼女を好き始めたのだろうか。これは、直観からしてYの方が先であろう。Xは、あくまでYの友達という立場であるからである。
 ここで、未解決と言えるような、Theorem1において不思議に感じられる歌詞が存在する。2番「いや待てよ そいつ誰だ」である。
 上記の問題に答えるために整理しておく。前節6で示されているように、Theorem1はYの「部分的な妄想」を仮定したその上にそびえているのであって、よって具体的にどの部分までが妄想なのかを画定させなければならない。曲調harmonyと、歌詞における段落を考えてみる。「洋楽好きな人だ」の節尾「だ」は文脈からして「だろう」に置換可能である。「君の恋人になる人は~洋楽好きな人だ」は主体の助詞「は」[6]でいわゆる主語が以降の述語を所有している。いわずもがな「洋楽好きな人」は「君の恋人になる人」なのである。同様の理由から、その次の歌詞からの、「キスをする」、「背伸びしている」、「頭をなでられ」、「笑います」はすべて「君」=花子に所有されている。そして「駄目だ 何ひとつ勝ってない」はいわずもがなYの所有するところである。
 よって段落の切れ目として2つあり「洋楽好きな人だ」と「キスをする」で一回切れ、「笑います」と「駄目だ 」でもう一回切れるのである。
 3つ目の段落すなわちただ一つの節からなっている段落「駄目だ 何ひとつ勝ってない」はその前の2つの段落から持ってきた諸要素を自分と比較したときの感想であり、総括でしかない。
 とすれば、ここで一つ大胆な仮定を設けることが必要かもしれない。すなわち、
「1段落目までが妄想であり、2, 3段落からは妄想でない。」

 上記の仮定によって提起されなければならない問題がある。花子に「キスをする」、花子の「頭をなでる」といった諸述語の主体はだれかという問いである。これはA, B主観のそれぞれの所有者を特定したときのように、歌詞から推定する。とするならば、登場人物のうちの誰かであり、推定されるまでもなく自明に、¬Y = Xである。 よって花子に対する上記の諸行為の主体は、なんとXである。これはぜひ定理としたい。

Theorem2「花子をものにしたのはXである」

 この節を時間論と題したのは、A,Bの2つのクラスタともX, Yそれぞれにとっての「現在」を歌っているからである。前で述べたように、YはXよりも長い時間花子のことを好いていたのであり、それでもXに先を越されて、その絶望的な屈辱を受けることになるのである。Yにとっての「現在」は、Xのものよりも断然物理的に長いし、辱しめに満ちているのである。

7.Cクラスタは誰のものか

 結論から言えば、Yのものである。Theorem2からして、Xは悪夢的な「オチ」を憂慮する必要はないし、「震え」ることもない。
 ただこれを歌うYの「現在」はとても興味深い。文脈からして、Bクラスタのいわば中間時と同じ物理時間に歌われているからである。
 ミュージックビデオ[7]中におけるCクラスタの映写に言及する。4:10~から3人の男が映される。これはback numberのメンバー3人であるが、もっと一般的にただ「男」という捉え方でこのシーンを見たとき、何が感じられるか。「なぜ3人なのか」という問いである。X, Y2人の役として出演させたいならば、ひとり余分であろう。ここに目をつけて、このレポートの主張を攻撃しようとこころみる幾人かがいるかもしれない。
 しかし、産業革命の時期は過ぎ去り、高度情報化を終えつつある現代[8]に撮影されたこのミュージックビデオ、という観点からすれば、3人という人数構成はまったくあたりまえのことにすぎない。もちろん、バンドメンバーという特殊の役割をそこに見出すとき、以下に述べることは成り立たないだろう。しかし、この曲はback numberの入門曲ともいえるものであり、視聴する人の多かれ少なかれは、これがback numberのメンバーであることには気づかない。つまり、ただ単に「男」が3人という一般化されたときのこのシーンは、X, Yという、これまた一般化済みの立場positionに「だれだってさえ」当てはまるということなのである。これは結論に直結する。

結論

いつこのレポートを執筆している私でさえこのX, Yの立場に立たされるのかわからない。<花子>と<付き合える>のかどうかは、第一に心持にこそ根拠があるのであって、また、恐るべきことに、Yの立場に置かれた場合、私の近しい友達がXの立場にいて、いつ私の恋愛成就を破壊するかもわからないという「高度パラノイア」を暗に歌っているということこそ、この曲の神髄であり神通力なのである。この曲を聴き終わった後に感じられるあの虚無感nihilismは、この古典懐疑論的であり、すべてにおいて立ち止まることを余儀なくされ、時さえも止めたくなる衝動ゆえであった。


仮定と定理

Assumption0.1「「知人B」とはXである」 
Assumption1.1「A主観とB主観はそれぞれ別の人物(XとY)に帰される」
Assumption2.1「Bクラスタは部分的に妄想を認める」
Theorem1「1番を歌うのは{友達}=Xであり、2番を歌うのは[友達]=Yである」
Assumption2.2「件の妄想のの終わりは「洋楽好きな人だ」に画定する」
Theorem2「花子をものにしたのはXである」



引用・註

[1]独自研究
[2]sugar&salt music「back number『高嶺の花子さん』歌詞の意味・解釈と考察」(https://www.sugar-salt.com/entry/%E9%AB%98%E5%B6%BA%E3%81%AE%E8%8A%B1%E5%AD%90%E3%81%95%E3%82%93/)(2022年10月26日確認)
[3]FRAU「高嶺の花子さん【back number】歌詞の意味を考察!行き過ぎた妄想でも共感できる!」(https://media.framu.world/columns/lyrics_consideration/takanenohanakosan/)(2022年10月26日確認)
[4]OTOKAKE「「非モテ系男子」を表現したback number「高嶺の花子さん」の歌詞を紐解く」(https://otokake.com/matome/pmO2ql)(2022年10月26日確認)
[5]中村敬'(2022)「統合失調症」『Doctors
 File』(https://doctorsfile.jp/medication/221/)(2022年10月26日確認)
[6]三上章(1960)「象は鼻が長い ―日本文法入門 (三上章著作集)」(くろしお出版)を参照
[7]back number(2013)「back number - 高嶺の花子さん (full)」(https://youtu.be/SII-S-zCg-c)(2022年10月26日確認)
[8]独自研究


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