「心を動かす」のは自己陶酔ではない

前回自分が心を動かして絵にも感情を乗せたい話をした。
ただ注意点があって、自己陶酔は感動とは無関係であるばかりか感動を減殺する働きがあることを知らない人が案外多いことだ。

自己表現=自己陶酔と思ってる人も多いように思う。
罷り間違って(色んな要素の兼ね合いで)そのまま人気者になっちゃった人もいるからそれを表立って否定する人も少ない。

自己表現=自己陶酔と思ってないまともな表現者は得てして謙虚なので大声出さないしね。
そして作品制作とは関係ない横ごとだから声出す必然性もないしね。

そうすると自己表現と自己陶酔の見分けがつかないギャラリーや表現者ワナビ群のが圧倒的に多いから結果として「自己表現=自己陶酔」が罷り通ってしまう。

でも自己陶酔をやめて自己表現できるようになったらそれまでの自己陶酔モードでは作れなかった質のものが作れるようになるんだよね。
でもそうなるとやっぱり制作とは関係ない横ごとだからわざわざ「自己表現=自己陶酔」を否定することもない。
制作以外に余計な労力使いたくないしね。

そうやって「自己表現=自己陶酔」説という誤解は温存される。

自己陶酔の何がまずいって客観性の欠如よね。
他人様の共感得たいのに客観性が剥落してたらまず無理だから。
あと制作に回すはずのエネルギーが自己陶酔に食われて作品のエネルギー総量が落ちてしまう。

例えば「ボクちんなんて美しいのかしらん…」なんて自分にうっとりしてる人物見たら傍目八目としては普通に引く。
同じく作品に「アテクシの作品美しい…」なんて自意識がこびりついてたらギャーってなってうっかり触っちゃった手をパンパンはたいて手ぇめっちゃ洗って消毒するわ私。

そういう自己陶酔への没入を感じる作品で、作品としてのエネルギーを感じるものにお目にかかったことは一度たりとてない。
自己愛(自己陶酔)と作品としてのエネルギーはゼロサムの関係なのである。
ただ、「描き手の自己陶酔への没入感」と、「作品としてのエネルギー」の見分けがつかない人もかなり多いのだと思われる。

何せ、細かい見分けのできるさらに高度な観察眼が必要になるからね。
物理的に描かれた以上の情報という点においては観察眼がない人には自己愛も作品としてのエネルギーも同じに見えるかもしれない。
しかし情報の「質の見分け」ができていないという意味ではその人のその時点の能力の限界を現しているとも言える。

この辺がわかんない人が底辺裾野層として大多数なのでそういった感覚の存在を否定する人の数自体が一番多いわけだ。
しかし前述の通りある程度描ける観察眼の優れた人は作品にこびりついた作者の自意識のノイズはわかるものなんですよ。
もちろんそんなことわかっても一言も口に出さないけど。
(さすがの私も面と向かって相手には言わない。だからこういうとこで書き散らしてるわけだけど)
そういうの見せられると作品そのもの見るとか以前に共感性羞恥という殺虫剤を浴びせられた蝿みたくブビビビと苦しむことになるので、私は裸足でソッコー逃げ出すようにしている。

まあ、なんだ、作品て何のために作るのかと考えたらよほどの捻くれ者でもない限りは「他人に何かを伝えたい」か「自分の中に穴があってそれを埋めるため」のどちらかだろう。

前者であれば「自己陶酔」という他人にとって何の益体もないもので作られた作品から伝わるのは作者の自己愛くらいだろう。
なので、火の玉ストレートで言ってしまえば「他人に目を止めてもらいたかったら自己愛(自己陶酔)は引っ込めろ、話はそれからだ」としか言いようがないのである。
それこそ他人にはクソの役にも立たん、というシロモノだからね、自己愛なんて。
だから、自己愛を梃子に描いたものなんて他人にとっては何の関係も価値もないし、だから伝わらないのである。

後者であれば、それこそ自己愛はおよびではない。
こちらは客観性が伴わないことも多々あるが、他者から自分がどう見られるかというキョロ充視点は視野の外であり、その分純粋な創作である。
それは生き延びるための創作であり自己陶酔とか自己愛という次元ではなく、サバイバルなのである。
サバイバル能力とは生きる力そのものである。
だからサバイバーの作品は良きにつけ悪しきにつけエネルギー値が高いのである。

例えばヘンリー・ダーガーがその膨大な作品群を自己愛から作品を作ったのかと問われればおそらく「NO」であろう。
彼ほど「他人を全く視野に入れず純粋に作るために作った」人間はいないと思う。
ヘンリー・ダーガーは自分にうっとりするためではなく、あくまで「自分が生き延びるための一縷の蜘蛛の糸を自ら編んでいた」と私は思うのだ。

前者は客観性を持つことで他人からの理解が生まれ、後者は他人ウケの排除によって獲得した純粋エネルギーで見る人の心を動かす。
そこには自己愛や自己陶酔の挟まる余地はない
のではなかろうか。というのが今回の結論である。


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