「パクリ」と「参考」を分けるたった一つの要素〜パクリ肯定論理は鬼滅の「鬼論理」(7)

今回は「今ならわかる、私の心の師も【バレないために『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】レベルの絵師に悩まされていたらしい話」と「こちらから見た寸止め絵師の姿」(オブラート無し)と「ではパクリと【元絵の絵師も納得する『正当な参考やオマージュ』の違い】は?」である。


かつて私のお絵描きスタンスを変えた天上人は「ヘッタクソなのに努力しない人って、大っ嫌いなんです!」と叫んだ


私のお絵描きスタンスを変えた心の師とも言うべき天上人のような絵師がかつていた(今はどうされているのだろう…)

天上人についてはこちら

上のnoteにも書いたけど、この天上人はネガティブなエッセイを本来書かない人だった。
そんな人がたった一度だけ書いたネガティブなエッセイで今も記憶に残るこの2つの記述はまさに【バレないために『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】レベルの絵師に向けたものだと確信できる。

「(他人の絵を)参考にするっていうのは、自分とかけ離れた(自分より段違いにかけ離れて上手い)実力の人に対してするものだと思うんだけどな」
「私、ヘッタクソなのに努力もしない人って、大っ嫌いなんです!」

底辺裾野の凡庸な絵描きを救ってくれた今はもういない絵師さんへ
https://note.com/midoriene/n/ndfdbe1134fc8

私もあまりにひどくストーキングされた末に声を上げたら「大した上手くもない癖にパクられたとか自意識過剰!」と言われた。
いやいややってますやん、丸パクじゃないからって自分に言い聞かせながら切り貼りで色々持ってってますやん。
バレないように上下左右反転とかして隠蔽工作してますやん、それって犯意の自覚がないとできんことやないですか。
そんなら幼い子の丸パクの方がまだ「パクリが良くないって知らなかったんだな」で済みますわ。
一部切り貼り反転工作してること自体が故意という自白になってるんですが。口頭ではなく行動での自白だけど。
意図的だからこそわざわざ加工するんじゃないですか。
それ、ご自分の内面でどう折り合いつけてるのですか?
「ちょっとくらいみんなやってる(多数決の正義な)んだから見咎めるな!」って「ちょっと触ったくらいでめくじら立てる女は可愛ないで、デヘヘ」っつうスケベ親父かよ。
これはちょっととか全部の問題じゃないんだって。
「浅ましく意地汚いそのスケベ心満々の目を向けられること自体がショック」なんですわ。
こちらの意思を無視して断りなく絵を勝手に切り刻んで玩具にしてやろう、と欲望滾らせてるのが嫌なんだって。
知らんスケベ親父に通りすがりのどさくさ紛れに触られたら嫌なのと一緒なんだって。
他人の体を自分の欲望のための玩具にするなってのと同じ話なんだって。

他人の絵をただの「勝手にバラバラにしていい玩具」として扱い、その他人にも「心や気持ちや尊厳」があることなんて無視して「自分の尊厳(他人の作品を好き勝手に弄び、自分の絵だけ褒め称えよと望む)だけは山のように高く認めろ」とか、選民思想のアタオカの発想でしょ。


だから鬼滅の鬼そっくりだっつってんの。
ほんのちょっとの感想も一言も言わない癖にその「なんの感懐も湧かないはずの絵」を黙って切り刻んで持ってくとか意味不明すぎるしどんだけ矛盾しとんの?
自分のやってることの意味わかってる?
それでいてそんな小手先の誤魔化ししかできないレベルの絵師同士でつるんで褒め合い合戦やって私たち尊敬しあってるんです、こんなに仲間がいてそれぞれ人気あるんです、切磋琢磨し合ってるんです、で誤魔化し合って裏ではマウント取り合い修羅の国の抗争とか、ギャグなんですか?
裏で殴り合ってる同士が優等生ヅラで『私の素晴らしいフォロワーを傷付けないで!』とか真顔で言ったら正直笑っちゃうんですけど。
(マジでこう言われた)

関連note↓

一応指摘しておくけど、こういう人たちが丸パクしない理由も「バレないため」だけじゃないよね。
丸パクしたら如何にも初心者みたいでそれなりの年数描いてる超ベテラン()絵師
(実際成人くらいの子供何人もいるアラフィフくらい?とかもいた)としてプライドに触る上にそれまでの自分の絵の歴史が否定された気持ちになるからだよね。
(Bさんの絵柄丸パク漫画家C、よくそこまでプライド捨ててまでやったよね…)

BさんとCについてはこちら

そんなこと気にするくらいなら他人の絵切り貼りして「自分の絵だ!」って言える面の皮の厚さを気にした方がいいんじゃないですか?
それをバレないと思いたがる幼稚さ、絵師としての未熟さを恥じた方がいいんじゃないですか?
そんでバレたからって(裏ではマウント取り合う)ご同類とつるんで都合悪い発言をする私を集団で袋叩きにして満足ですか?
でもそんなことしてもあんたたちの絵は上達しないよ。
そんな考え方であるうちは永遠に上達しない。
断言する。
相手を下げることで自分を上げようというルサンチマンをやめない限り、永遠に薄ら寒い褒め合いと修羅の抗争のダブルスタンダードという喜劇を続けることになるんだけど。
そんな自覚が欠片もないんだね。全くおめでたい。

「大した上手くもない癖に」、ってそれこそまさに

「(他人の絵を)参考にするっていうのは、自分とかけ離れた(自分より段違いにかけ離れて上手い)実力の人に対してするものだと思うんだけどな」

である。
天上人は全く炯眼であった。

あんたたちそんなんだから底辺クズ絵師なんじゃないですか。


「「私(たち)、(ルサンチマンから『先っちょだけ』『寸止め』『切り貼り』の小手先誤魔化しで恥じないレベルの)ヘッタクソなのに(真っ当な)努力もしない人って、大っ嫌いなんです!」」



「パクリ」と「参考」を明確に分けるたった一つの要素


先日相方に言われたこと


実は先日相方にこう言われた。

「私たちジャンル違いだけど実はみどりーぬの絵からイメージもらって書くのが後ろめたい時期もあったよ、昔だけど」

詳しく聞くと、書けた小説の出来の大半が私の絵のイメージによる上げ底で、自分の実力ではないのではないか、ととても気になっていたという。

では、それをどうやって克服したのか?と聞くと
「参考元(絵でも写真でも資料でも)に心の中ではっきりと感謝の念を持つようにしたら、楽になった」
と言う。
確かに、小説であろうと他の文章であろうと、相方は文章を書くと参考文献をきめ細かく挙げて、感謝の言葉を必ず書き添えている。
私の絵の場合は勿論参考文献ではないので表記はわざわざしないが、心の中ではっきりと感謝の念を持つようにしたら心が楽になったという。

つまり、参考元(を抹殺せず)に敬意を表すること(これ見よがしに表立ってやらなかったとしても)、真の感謝の念を持つことで後ろめたさから解放されたと言うのだ(勿論感謝のフリだけではいけない)

それは、相手の存在、相手の作品の存在を認める、その作品の作成過程の努力を認める、ということそのものである。

相手の存在を認めないという歪んだプライドが自分の絵をデフレスパイラルさせる


逆に相手の存在を否定しながら相手の作品を、鬼滅の鬼のように喰らって取り込もうという行為は「相手の存在、相手の作品、作品の作成過程の努力を認めない=相手の存在を抹殺しながら自分の力として取り込もうとする」行為である。
ただし、この行為に現実的な実りはない。
相手の存在を認めないという歪んだプライドが自分の絵を歪ませる上に、「自分の絵は素晴らしいはず」という思い込み(ダメ脳内補正)が更に認知の歪みを加速度的にエスカレートさせる画力のデフレスパイラル(モノの価値が下がる悪循環、このnoteに限ってはモノ=絵)に陥るからである。
ダメ脳内補正に侵され歪んだ視野ではそれに気づくことはまず不可能なので、そこから抜け出すことは難しい。
目前に存在している人間(寸止めの参照元の絵師)を「存在していないことにする」発想自体が『自ら認知を故意に歪ませている』行為そのものなので、自分自身が認知を歪ませている犯人なのである。
そんな歪んだ認知で描く絵が客観的に整う(人目に見て心地よい)はずがない。
在るものをないことにする、黒いものを白いことにする、これは客観ではなく自己都合で故意に撓めた独善だからだ。
そして例えどれだけ自分の絵が歪んでたとしても、親しいつもりの仲間たち()は仲間()の絵がヘタクソなほど(自分の引き立て役として)大歓迎なので「あんたの絵ここがちょっとおかしいよ」とか指摘してくれるはずもない。
裏に回れば互いに腹の中で殴り合いマウントを取り合う修羅だからね。
お互いに相手がよりヘタクソなことを望む仲間たち()って寒いしさもしいよね。

なので相手の自助努力を認めないで上澄みだけ喰らって手に入れようとする行為は実りのない虚しい行為である。
もし仮にその行為が実っているのであれば、そもそも他人の絵をずっとストーキングする必然性もない。
一度相手の絵を喰えばそれで済むはず
である。
そして上がった画力に満足してストーキングをやめていたなら「みんなやってる」という自己弁護も不要になる。
なのに現実にはそうなってはいない。
次以降に描いた絵で何も見ないで同じ技法を自力で再現し続けられれば「身についた」と言えるが、「『毎回見ないと描けない状態』では身についたとは言えない」のである。
その上その「身についてないので続けるストーキングを本人は『正当な努力』と思い込んでいる」からなおタチが悪い
「相手の存在、相手の作品、作品の作成過程の努力を認めない=相手の存在を抹殺する」行為(しかも一度喰いついたら離さない)が果たして『正当な努力』なのだろうか?

正当って、なんなんですかね。


なので、寸止め絵師が延々とタゲった絵師を後追いしてる時点で目論見は外れてるし、ほしいと思っているクオリアも技量も永遠に手に入っていないのである。

本人ばかりは信じたくないだろうけれど。

絵の体裁を上げることと絵の上達は全く別物


以前から度々引用している記事にこう記述されている。

しかし、そこには罠がある。デジタルで出来る事は「絵の体裁を上げる事」に集中していて「絵描きを上達させる」事に関してはまるで考慮されていない。画像の複製や3Dデータ、描画補助機能の導入で著しく手間を減らせる事は出来るが、それはその絵を描く機会を自らの手で一つ潰したという事でもある

絵を巡る考察プレビュー版
補講・デジタルに潜む罠
目的に合った使い方を探す
より
http://www.ub-text.lsxilo.com/diary_log/drawing.html

全文はこちら(ダメ脳内補正の原典でもある)

こちらは安易なデジタルツールの機能に依存すると逆に画力向上の妨げになるという趣旨なのだが、デジタルツールではなく安易な寸止め切り貼り行為も同じ構図だと思う。

↑の記事の言葉を借りると安易な寸止め切り貼り行為は「絵の体裁を上げる事」はできるが「絵描きを上達させる」事に関してはまるで寄与しない。【それはその絵を描く機会を自らの手で一つ潰したという事でもある】。
となる。
自分の手、自分の発想で絵を描く機会を潰してるのだから上達するはずないのである。
安易な寸止め切り貼りは「絵を描いてるのではなく、他人の絵をただの道具扱い、便利ツールとしてバラバラに解体して使ってるだけ」であり「相手の存在を心の中で抹殺しながらでないと自分の絵として公開できない欠陥作品」でしかない。

自分の絵をバラバラに解体されて勝手にヘタクソな見知らぬ奴の絵の一部に組み込まれてそいつの名前を冠して陳列されてるのを見た時のショックはまあされた人間にしかわからない感情だが、例えると鬼滅で玉壺の自称「芸術作品」を見せられたような気分に近い、とは言っておく。
ああいうめちゃくちゃ出鱈目ゴテゴテの造形かつ勝手に使われた相手の尊厳丸無視もしくは感情を逆撫でするような代物である。
経験しないとわからないことなので、信じたくない人は信じなくても別にいいけどね。
そういう経験がないって幸せなことだと思う。
人目(悪意のストーカー)を気にせずのびのび描けるって幸せなことだよホント。

最終結論。

「パクリ」と「参考」を明確に分けるたった一つの要素、それは

相手絵師への、又は参考元への真の「敬意」の有無

である。


(やっと終わった…)


(終)

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