「パクリ」と「参考」を分けるたった一つの要素〜パクリ肯定論理は鬼滅の「鬼論理」(6)

今回は【バレないために『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】レベルの絵師と鬼の共通点についてのその2と寸止め絵師のパラドックスである。


鬼舞辻無惨の「私に殺されることは大災に遭ったのと同じだと思え」に炭治郎が怒るわけ

ごく最近鬼滅を読んだ私よりみなさんの方がよくご存知のこととは思うが、鬼滅の刃21巻、鬼舞辻無惨の元に辿り着いた炭治郎と冨岡義勇への言葉である。
無惨は鬼殺隊に追われることも恨みを持たれることも「飽き飽き」「心底うんざり」と発言する。
その上で「大災と思え」「死者は戻らないのだから自分が生き残ったことを奇貨として大災は忘れて暮らせ」「そうしない鬼殺隊は異常」と続ける。

炭治郎の中で何かが切れたのはこの発言のためである。

炭治郎はなぜ静かにキレ散らかしたのか?

では炭治郎はなぜこの発言に静かにキレ散らかしたのか?

あくまで私の解釈でしかないが、無惨のこの言葉の傲慢さ、厚顔さ、そして元人間であり人間の感情の機微を知らぬわけでもないのに他人の感情を一切斟酌せず自分の感情論(しつこい、飽き飽き、うんざり) だけは主張する身勝手さから来るのではと思う。

そしてこれは私が【バレないために『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】レベルの絵師に感じることに一脈通じていると感じる。

どこに共通点があるのか。
ちょっと説明が長くなるが解説を試みてみようと思う。

鬼の中では鬼と人間の立場の非対称性は当然の理

鬼に感情がないわけではない。むしろ極めて感情的で理性の抑制が効かず本能に従い行動する(除く珠世と愈史郎)
飢えれば人間を喰い自陣営でも我を張り合いマウント取り合いで嫌味の応酬をする(そもそも固めて置いといたら共喰い始める)くらい感情的かつ本能的である。
真の芸術家を目の当たりにすると自分のエセ芸術家っぷりがバレるのでルサンチマンを拗らせ真の芸術家に邪魔を仕掛け、自分が先に他人を害したにも関わらず自分を嘘も吐かぬ善良で可哀想な弱者と思い込む。

元人間であるので感情(しかも下劣で動物的な)は保持しているが他人の感情は一切無視である。

大災には感情はない。
人間を害そうと誰かが悪意を向けた結果災害が起きるわけではない(平将門とかの伝承は横に置いておいて自然科学的な話として)

鬼には人間由来の感情があり、自己を欺瞞する理屈をひり出す理性も(一応)あり、他者にも感情や大事なものがあること自体は了解している。
しかし、他者の気持ちというものには一切斟酌も尊重もせず、むしろ他人を害する暗い愉悦に親しんでいる。

当人(? 当鬼?)は己の無謬性を盲信している(強い者を認め仲間にしようという親切のつもりなど)が、その下には弱者切り捨て、他者への無配慮、結局は殺戮に見出す愉悦、自らの優位性の確認のために他者をいたぶる残虐性などがあることを隠しもせず恬としているわけである。

炭治郎のガチギレポイントはここだと思う。
他人を意図(悪意の感情)を持って害しているにも関わらず、自らを(大災のように)無謬と位置付けていることである。
他人に対して悪意を向けること自体を何ら疑問もなく肯定し自らにその権利があるといけしゃあしゃあと言い切る傲慢さが「存在してはいけない生き物」と炭治郎に言わしめたのではないか。

これらを言い換えると「他人に下劣な悪意を平気で向け楽しむが、他人の感情は認めぬ非対称性を当然のものと考える傲慢さ」となる。

「俺様は好き勝手に他人を害しそれによってキモチヨクなる権利があるが被害者がそれに抗議することは許さない」
「俺は感情的に振る舞うがお前らにはそれを許さない」
要約するとこうなっていく。

「俺様は好き勝手に他人を害しそれによってキモチヨクなる権利があるが被害者がそれに抗議することは許さない」から次にこう流れていくわけだ。
「俺様の害は大災と思え」
「死者は戻らないのだから自分が生き残ったことを奇貨として俺様の害は忘れて暮らせ」
「そうしない鬼殺隊は異常」

寸止め絵師の中でも寸止め絵師と相手絵師の立場の非対称性は当然らしい

一方寸止め絵師はというとこうなる。

「私様は好き勝手に他人の絵を害しそれによってキモチヨクなる権利があるが絵を侵害された被害者がそれに抗議することは許さない」
「私様の害は大災と思え(どうせみんなやってることなんだから私様にだけめくじら立てるな)」
「物理的には害されてないのだから気分を害するだけで済んだことを奇貨として私様の害は忘れて暮らせ」
「そうしないお前は異常」

実際上記に該当する言葉を寸止め絵師らに投げられている。
「そんなことみんなやってるんだからめくじら立てるな」
「減るもんじゃない(物理的に損害があるわけじゃない)んだからいいじゃないか、それに怒るお前の心が狭い」
「みんなやってることを怒るお前が異常」

↑ちなみに主人公ならまず言わない雑魚モブ論理ばかりである。
雑魚モブ論理についてはこちら


物理的に損害がなければ何をしてもいいのか

あのー、そもそも論として物理的に損害がなければ何をしてもいいもんなんですかね。という問題がある。

例えば鬼が今目前で人を頭から喰らおうと涎垂らしつつ牙だらけの大口開けてるまさにその時に、「まだ物理的損害が発生してないから怒ったり怯えたり恨んだりするのはおかしい」って喰われそうな人に向かって言えるものだろうか?
(私には無理である)

悪意を向ける行為とはそういうことである。
お前の大事なものを喰らって損壊してやるぞ、という意志を見せたらもう悪意の発露なんである。
物理的損害がなければ良いという発想を敷衍させると、ストーカーに殺されるまでストーキング被害者は被害を訴えられなくなるし脅迫罪も成立しなくなってしまうのだ。
「減るもんじゃないからいいだろ」って人はこれらをどう考えるのか、是非とも聞いてみたいものだ。
物理的損害がなければ良いという発想はストーカー被害者は殺されるまで黙ってろ、脅迫されても実害が出るまで被害を訴えるな、と言ってるのと同じである。

お前の大事なものを喰らって損壊してやるぞ、という悪意なんか絵でわかるはずない、という人が多いのは、身も蓋もないことを言ってしまえばそりゃ底辺ヘタクソ絵師がそんだけ多いからである。
そりゃ最大多数派だもんね。
そんなことも感知できないくらい感受性も想像力もなく他人の立場ってものも理解できない(理解しようともしない)エゴイズム、自分の描いた絵にグロ思念が乗ってても気づかない鈍麻した神経、グロ思念シャットアウトして描けない低レベルの技術にダメ押しのダメ脳内補正、これでどうやって人様の心に訴える感性溢れる絵を描こうって言うのだろうか。
不都合な真実から目を逸らしたまま描ける無神経さ、ふてぶてしさにはいつも瞠目させられるけれども。

不都合な真実から目を逸らすから逆に綺麗なもの、真実のものが感知できなくなるのである。
神経まともなままで都合の悪いものは感知しないで都合のいいものだけ享受できるほど人間の感受性って器用じゃないんですよ。
そんな器用なことできたら鬱やトラウマに苦しむ人なんてこの世から一人もいなくなりますよ。

前にも書いたけど絵ってのは視覚的に描き手の思想、心情を表現したものだからその人の心情が乗るの当たり前なんである。
ただ意図した通りの心情が乗るとは限らないけどね。
ちゃんと自分に向き合ってゾーンに入れば想定以上の表現になるし、ちゃんと向き合ってない人はゾーンに入るどころか絵に自分のグロ思念入っても気づかず垂れ流しになるという実はものすごく怖いものなんだけどね。
だから仇や疎かに描いてはいけない、と私は思うのだけど。

もうひとつ追記すると「物理的に損害がなければ何をしてもいい」は雑魚モブを越えた悪役論理ですね。

【バレないために『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】レベルの絵師と鬼の共通点まとめ


結局寸止め絵師と鬼の共通点て、
相手にも感情があるという当然の事実も無視して
自分がキモチヨクなるために相手の大事なものを侵害しても何の痛痒も覚えないところ、
相手の気持ちなんて考えもしないところ、
自分はルサンチマンという悪意のグロ思念垂れ流して隠しもしない(できない)癖に
相手がそれで感情を害したら異常扱いするところ

であると言えよう。

鬼滅読んだ時あんまりにも寸止め絵師そっくりな行動様式の鬼ばっかりで実は笑っちゃったんだよね。
こんな読み方する奴他にいないと思うけど。

客観的視点を持たずに客観的に高い評価を得ようとすることの矛盾に気づかない寸止め絵師


人の気持ちがわかるということは、想像力や客観性があるということである。

寸止め絵師は、相手がどう思うか、見た人がどう感じるのか、そういった客観的視点や想像力を持たず自分の欲求のゴリ押しだけする癖に客観的に高い評価を得ようとしていると言える。
これは明らかな矛盾である。
もしも客観的視点があるなら【バレないために『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め』】というセコい行為はしないと思うのだ。
他人を慮れるならそもそも「こっそりやれば他人の絵を侵害してもバレない」とかそういうみみっちい考えが例え浮かんだとしても、理性で抑制できると思うのだ。
わざと理性で抑制しないのであればその時点で既に「悪意あり」と判断できるし、抑制できないのであればそれこそ鬼と同じく「本能と感情だけの(理性があっても働かせない)エゴイスト」ということになる。


少なくとも私は相手や他人がどう感じるのか思料するつもりのない利己的な絵師の絵を支持することはない。
絵には人間性が現れる。


絵師の「絵で感動が伝わるはずがない」はアイデンティティの危機、あるいは寸止めレベル絵師のパラドックス


そもそも寸止め絵師は「悪意なんか絵でわかるはずない」と声高に言うけれども、それを逆に裏返したら「絵で感動が伝わるはずがない」になってしまうというパラドックスに気づいているのであろうか。

何も絵から伝わらないのなら、じゃあ何のために絵を描いているのだろうか。
それともやはり自分に都合のいい感動だけが人に伝わると思ってるんだろうか。
そうだとしたら随分幼稚で浅薄な考え方に見えるのだが…。
これ、絵師としてのアイデンティティが問われる問題だと思うのだが、寸止めレベルの絵師にはわかんないんだろうか。
わかってたらそもそも【バレないために『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め』】なんてしないもんね…。


またしても今回で終われなかった…


(続)



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