「パクリ」と「参考」を分けるたった一つの要素〜パクリ肯定論理は鬼滅の「鬼論理」(5)

えらい長くなってしまってるが、どうしても外せない内容なのでまだ続くのだった。
今回は【バレないために『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】レベルの絵師に毎回言われる言い訳「みんなやってる」の陥穽について。


「みんなやってる」は雑魚モブ論理


ちょっとイメージしてみてほしいのだが、漫画のキャラクターが「そんなことはみんなやってることだ!」と言い出したしたとしたらあなたには、そのキャラが主人公に見えますか?
私には明らかに雑魚モブキャラか主人公の足を引っ張る程度の小物悪役キャラにしか見えない。
私はこうやって「この台詞は主人公っぽいか雑魚モブっぽいか悪役っぽいか」で言葉を判断することがある。
判断に迷ったら主人公っぽいほうが正しいのだろうなあ、と判断する。
【バレないために『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】レベルの絵師の発言を見聞すると「この人小物悪役(or雑魚モブ)っぽい台詞を真顔で言ってるけど、自覚あるのかな…」と心配になることも多々ある

ちなみに『先っちょだけ』とか『たくさん目の前に陳列されてるから盗んでいい』『ブスのくせに自意識過剰』とかも「漫画でこれ言ってるキャラはレイプ犯だな」「窃盗犯だな」「雑魚モブだな」と判断する。当然のことだが。
小物悪役風も雑魚モブ風も犯罪者風も少なくとも(アンチヒーロー以外の)主人公が(途中経過ならともかく)到達点で言う台詞ではない。

「みんなやってる」はなぜ雑魚モブ論理なのか

「そんなことみんなやってる!」がなぜ雑魚モブ台詞なのかわざわざ解説するまでもなく言わずもがなとは思うけど、一応説明してみる。

まずは「そんなこと」と内容を吟味精査深慮せず反射的に相手に投擲するような雑さで問題を切って捨ててることがひとつである。
例えば炭治郎は反射的には絶望しかけることもあるが、すぐに良い手段はないかを考えに考え、解決の糸口を見出す。
何かを吟味精査深慮せず反射的に相手に投擲するような雑さ「だけ」で主人公が本懐を遂げるストーリーを私は見たことがないのだが、いかがだろう。
如何な脳筋猪突猛進キャラでも主人公ならば、一旦立ち止まって自分の真の気持ちや周囲の状況を確認して初めて何か気づきを得、事態の打開の糸口を掴んだりしてないだろうか。

次に「みんなやってる」は「みんながやってるから多数決で正しい」と内容を吟味精査深慮せずに思考停止していることの表れだからということがひとつ。
もうひとつは「みんな=大多数」の意味についてわかっていないか考えていないかのどちらかと思えることである。

「みんな=大多数」の意味とは何か


鬼殺隊の力量の分布図を考えても、絵師や漫画家の人気分布図を考えても、その形は富士山型になることに反対する人はあまりいないと思う。
その分布図が逆さ富士型になるということはあり得ない。
一握りの天辺の超越者が柱であり、超人気絵師、超人気漫画家である。
決して超人気絵師の人数がド底辺のヘタクソ絵師より人数が増えるという現象は起こらない。
どんな超人気絵師でも始まりはド底辺のヘタクソから始まるからである(稀に生まれながらの神童もあるかもしれないが、寡聞にして存じ上げない)
ド底辺のヘタクソ層の裾野から一段一段レベルアップしてトップに到達するのが常道ではないだろうか。
どこかで突然のブレイクスルーが起きるにしても、そこまではコツコツと上を目指して積み重ねて来たと考えられる。
そうやって有象無象のド底辺から抜け出しトップに上り詰めた精鋭が超人気絵師である。

この意味がわかるだろうか?

例えばド底辺の裾野絵師と精鋭の超人気絵師のどちらの描き方を参考にしたいのか?
誰でも超人気絵師だろう。
しかし、「みんながやってるから多数決で正しい」という考え方は「ド底辺の一番大多数の裾野絵師の描き方が正しい」「その他大勢の雑魚キャラが主人公より強い」と言っているのに等しいのである。
そこまで理解していて「そんなことみんなやってる!」と言うのであれば、それはその人の自由なので止めはしないけど。

自分が自分のお絵描き活動の主人公ではなくなってしまう「みんなやってる」理論


きちんと意味を理解した上で「ド底辺の一番大多数の裾野絵師の描き方が正しい」と思うことを止めはしないけど、絵を描く活動をする上で、「自分をその他大勢扱いにして、他人を引き立たせてあげるために書いている人」っているものなんだろうか
もしかしたらどこかにはいるのかもしれないが、まあいても極少数派だと思う。
それよりはやはり「自分が自分のお絵描き活動の主人公でありたい」人の方が多いのではないだろうか。
少なくとも私は他人は関係なく自分の描きたいものを描きたいと思っているので、いちいち他人の絵を気にすることはない。
私にとって自分の絵の出来は他人との相対評価で決まるものではなく、如何に自分の脳内イメージの理想に近づけるかで決まるものだからである。

なので他人の絵を見て描くとか論外だし「『みんなやってる』雑魚理論に何の意味が?」としか思わない。
そんなことしても自分の脳内イメージに近づくどころか脳内イメージをぶっ壊されてしまうから描く時は極力他人のものに触れず可能な限りシャットアウトするし、描かない時に限定して他人の作品を鑑賞することにしている。

一方、「見て描いたものしか作品として出せない」人は「自分のお絵描き活動の主人公は他人であり自分自身は雑魚モブ絵師です!」と喧伝してるようなものだと思う。
自分の名前を被せて発表した作品であっても、他人の絵を必殺技として貼り付けなければ発表できない時点でその作品の主役は他人の絵だからである。
自分の描きたい絵を描いてるはずなのに、その絵を一番描きたい動機が他人の絵ならその絵の主役は動機になった他人の絵になってしまう。
描きたい動機が他人の絵じゃなかったにしても、仕上げとか必殺技として他人の絵を切り貼りするなら、美味しい見映えする場所を他人の絵に受け持ってもらうことになり、これまた他人の絵に花を持たせることになる。
自分では見映えするように描けないと思うということは、脳内イメージ内にもっと見映えする理想があるはずである。
その部分を自力で描き上げず、安易に他人の絵から持ってくるという行為は、職人が「私には製品を作り上げる実力が無いんです、一番大事なところは他の熟練職人に任せないとできないダメ職人です」と言ってるようなものである。

そしてその状態が読者に例えバレなかったとしても、自分はそのチートを知っている。
いくら顕在意識で「これは私が全部描き上げた絵!全部私の絵なの!」と思い込もうと、潜在意識は騙せない。
表面でいくら虚勢を張ったとしても、潜在意識で引け目を感じることを止めることはできない。
虚勢の裏でどうしても自分を誇れない鬱屈が溜まる。
そんな作品描いて本当に心から満足できます?

自分も他人も騙そうという人間の作品が、本当の輝きを放つと思いますか?


雑魚モブから抜きん出たいのであれば、自分の雑魚モブ仕草に疑問を持った方がいいのではないだろうか。


というわけで、【バレないために『先っちょだけ』切り貼りで取り入れる『寸止め界隈』】レベルの絵師に毎回言われる言い訳「みんなやってる」は雑魚モブ論理であり、それを後生大事にしている間は超人気絵師への道は閉ざされていると思うのだ。

そもそも何のために描いているのか、という根源的な問いを自らにしてみてほしい。
本当の輝きを放つ作品を描きたいという気持ちがあるのであれば、自分も他人も騙すような描き方はしない方がいいと思うのだ。


今度こそ今回で終わるかと思ったらまだ続くのだった。

(続)


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