季の詞
なぜか言葉に対してふつふつと想いが湧いてきた。
言葉は元来、人と人との間での意思疎通、物事の伝達手段として存在している。
ただどの地域で生まれた言葉も、変化を伴い、またひとつの言葉にいくつもの意味合いを内包させ発達していった。消える言葉があり、あたらしく生まれる言葉もある。
言葉の中にはニュアンスとして、文化的情緒が付随されているケースも多い。
そんな中、世界を見渡すにはハードルが高いが、日本の「季語」の、主に成り立ちについて書いてみる。
万葉の時代から、季節の言葉を取り入れた歌は盛んに詠まれてきた。それらを「季の詞」として一定程度定めたのは平安時代だと言う。
そして和歌も連歌の時代になると、季の詞が必須になっていった。連歌は季節の歩みと共に前へ前へと詠み繋げていく文芸だからだ。
そこから連句、俳諧、俳句が生まれる過程で、季の詞を「季語」と呼ぶようになっていったと言う。
連歌華やかな時代、季の詞として定められた言葉のひとつひとつについて、内包する意味合いが、とりわけ「美意識」が妥当かどうかがさかんに議論され精査されたと聞く。
そのようにして育てられた季節を表す言葉が季語なのだ。
季語の歴史についてWikipediaに尋ねれば、大筋で以上のような内容だ。
日本の詩歌は短文だ。だから多くを季語に委ねる。「季語を信頼せよ」とは、そういう事なのだ。
ここでひとつ、更にわたしが言いたいのは、韻文である詩歌の季語として扱うからさまざまなニュアンスがあるのでは無いという事だ。
言葉に内包された美意識に詩人(古い時代のため、ここでは主に歌人俳人の意)が気付き、選びとり、生かしていったのが季語なのだ。
日常的に存在する、単体では特に情緒とは縁遠い季語も確かにある。ただそれも詠み方ひとつで、句として成立した時に深い情緒を醸し出す事がある。
ここでひとつKusabueさんの句を紹介したい。
冷蔵庫は夏の季語。当たり前にある家電に情緒が?と思うかも知れない。
もてなしは集う日。夏であればお盆の帰省に関する事もあるかも知れない。
冷蔵庫には、もてなす為に用意した様々な物が詰まっている。それをいそいそと取り出す。
久しぶりに集う面々への思いが「大きく」と言う言葉に溢れている。
文芸、とりわけ詩歌を嗜む先人達によって日本語は、その中に存在する宗教性や美意識を際立たせてきたと言えるのではないだろうか。
今では少なくなった紙の手紙。そこには時候の挨拶が存在するし、暑中寒中見舞いという慣習は、季節の便りとも言える。
美しい景観を意味した「花鳥風月」は、風流を表す言葉に転じている。
季節の風物詩に感性を委ね、四季の移ろいに無常観を見る。桜は散りゆく間際に美しさを見せるからこそ「花」であり、人の世は、絶える事なく流れる川のごとくと表現する。
季の詞のあり様は、詩歌だけにとどまらず、国柄の中で育まれていった文化的思想の広がりにも関与してきたのでは無いか、とは言い過ぎだろうか。
季の詞の本意を議論して制定に至る道筋に、自然との調和を是とする、そのような風土が編み上げた言語に対する詩人達の拘りを強く感じる。
他言語はどうなのだろうか。やはり詩人達の手によって、一語一語に深みが増していったのだろうか。
恐らくそうなのだろうと思えてならない。
言葉に対してふつふつと想いが湧く。わたしはわたしで日本語を大切にしていきたいと思う。
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