ノダミドリ

早稲田大学 博士課程 専門はE・エリクソンの思想研究。 株式会社POTETO Medi…

ノダミドリ

早稲田大学 博士課程 専門はE・エリクソンの思想研究。 株式会社POTETO Media 教育事業部 2015年 高校生向けプログラム「子ども国会」代表。 2017年 「政治をわかりやすく」伝える、POTETOへ。教育事業部を創設。 2017年 島根県の離島/海士町で小学校教員。

最近の記事

「未来」なんてダサい単語、二度と出すな

僕は20歳を迎えたあたりから人格が変わったな、と思う。 クリティカル・シンキング(批判的思考)が極度に伸びて、評論家のようにモノを言うことが多くなった。 一番はじめに思った、世界に対する反発は 「未来」ってなんだ、ってことだった。

    • 修士論文「E.H.エリクソンの教育思想に関する研究」

      内容も、方法も、形式もオソマツで読まれたくない修論なので、有料で置いておきます。 概要は無料です。有料エリアにPDFのリンクを貼っておきました。  本研究は、エリクソンのライフサイクル論における「子ども」の意味を、発達段階の第Ⅳ段階「児童期」と、その形成過程から検討することで、エリクソンの教育思想の特徴の一側面を明らかにしようとする試みである。一般的にエリクソンは、1960年代を中心として、アメリカ国内で広まっていった。また日本でも盛んに邦訳書が出版された。エリクソンの理論

      有料
      980
      • 「苦手なもの」にアイデンティティをみる、という話

        自分らしさ、というと、 自分を5つの形容詞で表現してみて とか、 自分のユニークなポイントを挙げてみよう とかいう。 それは、前者でいえば、明るいとか、元気とか。 後者でいえば、何が好きとか、続けてるとか。 それはそれでいいと思う、でも それが出来ない人たちにたくさん会ってきた。 たくさんエリクソンの本を読んで、わかった一つの事実があった。 それが「苦手なもの」こそ、アイデンティティがみえる、ということ。 例えばこんなケース1(※実話) 友達「好きな食べものは?」 ぼく

        • 書きたい主題について

          これまでいくつか書いてみて、今後書いてみたいと思う主題が浮かんだのでメモしておこうと思う。下に上げたものの中で、これ読んでみたいぞ、という物があれば優先して書いていこうと思う。そうでない限りは、かけるものから公開していけたらと思う。 Facebookで記事をカンタンな文章とともにシェアするものの、 「やっぱりもう少し詳しく言及しておかないとうまく伝わらないな」ということが多い。このnoteがその役に立てばと思うのである。 1.「エビデンス(根拠)」について 国家、自治体、

        「未来」なんてダサい単語、二度と出すな

          一人暮らしをして得た、大切なもの。

          来週この住居を離れるにあたり、3年以上のここでの日々を振り返る。 そもそも一人暮らしは必須ではなかった。 でも父親に相談したら「そういうことも必要だ」って、 母はずっと心配してたけど、すぐに帰れる距離なのに、離れた。 仕送りはなし。頑張って生きてみる練習と思って始めた。 新宿の一等地なのに52000円という破格の家賃だった。 大学まで3分だった。 4路線使えてどこへでも行けた。 内装工事直後でめっちゃきれいだった。 隣に油そば屋があった。 3階だから日当たり良かった。 天井

          一人暮らしをして得た、大切なもの。

          地下鉄サリン事件の突然の区切りに、僕は言葉をなくした。

          社会問題を探究する仲間たちと、夜通しアツい飲み会をした。 ヘロヘロで帰宅、ベッドに倒れ込む。 少し経って、二日酔いの気持ち悪さに目を覚ました。 今は何時だとスマホをつける。午前9時。衝撃的なニュースが目に入った。 僕は、「くそ、なんで今」って思った。23年前の事件のことではない。 7月4日に早稲田大学で開催された、早稲田大学人物研究会による講演会。 ゲストは、松本麗華さん。「麻原彰晃」の子に生まれて…加害者家族だ。 以下は、講演で、「入学拒否」を中心として振り返るなかで、

          地下鉄サリン事件の突然の区切りに、僕は言葉をなくした。

          栗城さんから考える「挑戦」

          僕は個人的に、死を悼む発言のない人に対して、 いい気持ちには、決してなりません。 しかし、栗城さんへの「無謀」コメントを見て心を痛めている人がいるのを知って、 「登山家」と「挑戦者」は、分けて考える必要があると思いました。 登山家には、 登山家としての歴史や常識やセオリーがきっとあります。だから登山界隈からすれば、栗城さんは無謀。 これはきっと間違いのないことなのでしょう。 僕は登山家じゃないので、そこの専門性には口を出したくないです。 ただ僕は、生きて帰ってきてこそ実績

          栗城さんから考える「挑戦」

          「正しさ」とか、「過ち」とか。

          「正しさ」や「過ち」ということをひたすら考えています。 許すか、許さないか、それが僕の一言で決まってしまっていいのでしょうか。 V.E. フランクルは、『それでも人生にイエスと言う』の冒頭で、こんなことを言ってます。 「本当に正しい行い」をしてる人は隠れている。 見つかると、その「正しさ」は消えてしまう。 人は、自分より正しい人から説教をされると、嫌な気持ちになるから。 規範的であることは、ポジティブなことではない。 正しき人は、数少ないゆえに、ひとりひとりの責任が重い。

          「正しさ」とか、「過ち」とか。