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「正しさ」とか、「過ち」とか。

「正しさ」や「過ち」ということをひたすら考えています。
許すか、許さないか、それが僕の一言で決まってしまっていいのでしょうか。
V.E. フランクルは、『それでも人生にイエスと言う』の冒頭で、こんなことを言ってます。

「本当に正しい行い」をしてる人は隠れている。
見つかると、その「正しさ」は消えてしまう。
人は、自分より正しい人から説教をされると、嫌な気持ちになるから。
規範的であることは、ポジティブなことではない。
正しき人は、数少ないゆえに、ひとりひとりの責任が重い。

「正しい」ってのは、カミサマが決めることではないです。
自分のなかの規範意識と比べてみることを言っているのだと思います。

規範ってどう決めるの
僕が子どもに教室での、ある「ルール」を聞いた時、子どもたちの間でその「ルール」の認識に齟齬があって、言い合いが始まりました。
人生7年目の子どもたちにはまだ早かったかもしれないけど、僕は「担任の王国」(担任の一方的な学級規範の押し付けをこんな風に呼んでいます)にしたくなかったので、話し合いを設けました。
結果、やっぱり早かったかもしれませんが、子どもたちの中に納得感が芽生えたように感じました。僕も納得しました。

そういえば「規範」と縁の深い子ども時代だった
僕は、(小3くらいからは)規範的な子どもだったと思うんです。
きっかけは、たしか、当時、少人数指導のみ担当していた算数の臨時の先生をいじめまくって病気なってやめさせちゃった事があると思います。
もう、それはそれは、いま自分がされたら一瞬で精神病むだろうな、ってくらいです。それで流石に「やべぇ」って、人生反省したのでした。

でも、中3で「規範の鬼」みたいな生徒会長になって、当時のやんちゃグループから目つけられたのです。しかも卒業式直前で。人生仕返しあるなぁ(汗)と、こっちもなかなかに参って、学年集会で涙ながらに「それでも協力して、感動的な卒業式にしたいんだ」って話して、なんとか終わったけな。

引き出しヒモジクてすみません。

でもやっぱり、いつも規範的でいるのはキツい。
大人だって、いつも規範的でいられるわけではありませんし。
「赤信号をどんな状況でも待てるか」
って問があるとしたら、
「この島に信号機はひとつしかないし、しかもいつも黄色です」
って答えしか思いつかない。

規範を考えるときは、条件や背景を大切にしたい
学校は、子どもの中に規範意識が芽生える場所でもあります。
しかし「規範的であるべきだ」と、教師の一方的な型を植え付けるために、
規範を押し付けてはならない、と思います。本末転倒です。
子どもたちの間で起きた問題状況のなかで、反省的に思考を重ねながら、
子どもたちの論理に則って規範を作っていきたいものです。

フランクルがいいたかったことは、きっとこんなことではなかったけれど、
この言葉から思いついた記憶を取り寄せてみました。
写真は本文と全く関係のない、年始に大阪行った時の夕焼けです。

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