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安堂奈津子は今日もお腹が空いている #01.豚骨ラーメンと綾子の顔

こちらは『安堂奈津子は今日もお腹が空いている』というシリーズの第一話というつもりで書いた一次創作です。続くかはわからない。
練習のため、あまりプロットも考えず見切り発車で書いてしまいました。
プチホラーなつもりでしたが少しも怖くないです。主人公がいつもお腹を空かせています。

※軽めですが人がぶん殴られている表現がありますので、苦手な方はこのまま読まずにページを閉じてください。

誤字脱字報告や、感想いただけると大変嬉しいです。
が、あくまで趣味なため、内容のダメ出しはご遠慮ください。

1


何度目かの目覚ましの音で奈津子は渋々目を開けた。
遮光カーテンの隙間からはうっすらと朝日が差し込み、すぐ脇の道路を車が通るたび窓やミラーに反射した光が、放射状に白い天井を流れていく。
低いエンジン音が壁通して耳鳴りのような音で聞こえた。
奈津子は眠りから感覚が戻るにつれ、布団から出た手足が不快なほど冷たいことに気がついた。
残暑も通り過ぎ、本格的な秋になろうとしているのだろう。
一度布団を被りなおし、全身を温めながら手探りでカーテンを開く。
1Kの部屋いっぱいに日が差し込んだ。
まだ覚醒しきらない脳みそで、携帯の通知を確認する。
どれも通販発送のお知らせや、アップデートのお知らせ、何かのキャンペーンなどいつもタイトルだけ見て未読で済ませるようなものばかりだ。
電源を消すと、真っ黒な画面に自分の顔が映りギョッとする。
どうしようもなく胸がもやもやと重いのはこのせいだ。
クローゼットの前に置かれたスタンドミラーが視界に入る、電源の切れたテレビに映る自分を見る、コップに注いだお茶に映り込んだ自分と目が合う、その度に不安は増していく。
洗面所に辿り着き、顔を洗いタオルで拭うと少しだけ頭がスッキリした。
そしてゆっくり顔を上げると、鏡に大きく映った自分の顔と対面する。
わたしだ、わたしのはずなのに違和感がある。
その違和感の正体を探るうちに段々と確信が持てなくなっていく。
これは本当にわたしの顔なのだろうか、と。
こんな自分の状態に、どうも既視感があった。
何度も鏡を見ては少しずつ壊れていった彼女。
「綾子……どうしてるかな」
奈津子は不意に、もう半年も会っていない友人のことを思い出した。

2


あのとき、綾子は突然おかしくなった。
様子がおかしいと最初に気がついたのはいつ頃だっただろうか。
奈津子が頭を捻り思い出そうとすると、たしかそれは一学期の初め、二人で学食を食べたときだったと思う。
その日二つ目の授業が終わり、人混みの苦手な奈津子は一斉にランチへ向かう学生の群れをやり過ごそうと、なんでもない廊下の壁際で携帯をみていた。
そこに別の授業を受けていた綾子が通りかかったのだ。
彼女はひとりで居る奈津子を見つけると一緒に学食を食べに行こうと誘ってくれた。
混雑する購買部を通り過ぎ食堂に入ると、授業どうだった?などの当たり障りのない会話をしながら食券を買うための列に並ぶ。
たしか奈津子はその日豚骨ラーメン大盛り、綾子はチキンサラダのようなものだけを注文していた。
奈津子の認識では、どうしてもサラダを主食という扱いにはできない。
サイドメニュー、あるいは間食……?いや、より的確に言い表そうとすれば、美味しい味のついた空気のような存在と言った方が近いかもしれない。
大袈裟ではなく、綾子はどうやって生きてるんだろう、と時々思った。
というのも彼女は常に少食で体型を気にしており、一食抜くことも多い。
この日はサラダを食べているだけマシな方だったのかもしれない。
あらゆることに無頓着な奈津子と違って綾子は長い髪を毎日綺麗に巻き、可愛らしく結い上げ、一見上品だが上手く体のラインのわかる服を着ている。
一方の奈津子は限界まで短くしたボブのショートカットに、化粧はファンデーションのみ(このファンデーションですら綾子に言われてするようになった)、服はスウェットの上下とかGパンとか、Tシャツとか、とにかくカジュアルで動きやすいものばかり選んでしまう。
この日も二人はその通りの装いだ。
綾子はハーフアップの可愛らしい髪を揺らし、シンプルな薄いピンクのトップスに長いタイトスカートを履いており、奈津子は何もしていない黒いショートカットにファンデーションだけの顔、黒い大きめのトレーナーにジーンズ、毎日履いてそろそろ買い替えどきのよれたグレーのスニーカーだった。
半年も前に食べたものを覚えていられたのは、その日が学食のご当地ラーメンフェア初日だったからである。
奈津子はその数日前から告知ポスターを見てはこの日を楽しみにしていたのだ。
テーブルにつくと、「博多豚骨ラーメン風」をズルズル勢い良く掻き込む。
白い豚骨スープの濃厚な味わいにキクラゲと紅生姜の粋なアクセント!
王道だが間違いのない味付けと具材のバランス。
学食のくせになかなか本格的である。
注文カウンターの横に掲示されたラーメンフェアの告知ポスターを一心不乱に口を動かしながら眺めた。
ふむ、どうやら週替わりでラーメンの種類が変わるようだ。
来週は「喜多方ラーメン風」か。
こってりのあとは醤油であっさりというわけだ。
ふふふ、これは腹が鳴る!
奈津子が思わず綻んだ顔のままポスターから目を離した。
すると、ぽろぽろと涙を流す綾子が視界に入る。
彼女は涙を拭うこともせず、手に持ったフォークでただサラダのチキンを何度も刺しては引き抜き、時々レタスに打ちつけたりしている。
奈津子はギョッとした。
そういえば、綾子は先ほどから何か自分に話かけていなかっただろうか。
博多ラーメンに集中するあまり、奈津子は少しも話を聞いていなかった。
そもそも思い返せば学食に一緒に行こうと言われたときから少し思い詰めた顔をしていた気がした。
ラーメンばかりに気を取られ、目の前の人に少しの気も使えない自分の横面を叩きたくなった。
「えっ、綾子どうしたの、大丈夫?」
奈津子が問いかけると、綾子は「ごめんね、今言ってたこと忘れてくれていいから」と無理矢理笑顔を作った。
(今言ったこと……?ごめんわたしラーメンに無我夢中であなたが言ったこと全然聞いてなかったよ……。)
奈津子はこんなこと言えるわけもなく、だからと言って話を蒸し返すような空気でもない。
気まずい雰囲気の中、追い打ちをかけるように奈津子のお腹が大きく鳴った。
食べても食べてもお腹が空いてしまうのが、大食いの奈津子の厄介なところだ。
思わず誤魔化すように勢いで「大丈夫!お腹いっぱい食べたら綾子も元気になれるよ!」などと言って励ましてしまった。
「奈津子はいくら食べても太らないからそんなこと言えるんだよー!」
といつも通りのトーンで答える彼女は一見大丈夫そうに見えた。
しかし、このときの奈津子の態度や返答はおそらく全てが間違いだったのだ。
その日からほんの数日後、綾子は大学に来なくなってしまった。

3


彼女は、奈津子からすると偶然学科で席が近いだけの子だった。
安堂奈津子(あんどうなつこ)と飯嶋綾子(いいじまあやこ)、単純にあいうえお順で学籍番号が近く、大学一年の入学式から番号順に席を指定されたときなどに二人は必ず近くに座ることになった。
正直、服装だけ見ても二人の好みはまったく正反対であるし、性格や普段の生活、趣味なども特に一致するところがない。
だが、入学して直後のお互い誰も顔見知りの居ない状況では、とりあえず近くの人に話しかけてみるしかなかった。
今の説明ってどういうこと?とか、授業の選択ってどうしたらいいんだろう?とか、そんな切実な疑問を何となく隣同士で話しているうち、奈津子と綾子は大学2年になった今でも、たまにタイミングが合えば共に学食を食べたり、雑談をするほどには仲がいい。
普段一緒に出かけたりするほどではなかったが、大学での綾子の様子や人柄を奈津子はよく知っていた。
そんな綾子が「綾子」らしく無くなったのは、やはりあのラーメンフェアで学食を共にした頃からだったと、奈津子は改めて振り返る。
初めは寝癖だった。
いつも完璧に髪をセットしてくる綾子が珍しく、ほんの少しだけ寝癖のついたまま教室に現れた。
綾子とよく一緒にいる、彼女と似た服装の白川聡美がそれに目ざとく気づいて指摘すると、綾子はみるみる挙動不審になった。
その日も綾子は奈津子と隣の席だったのだが、彼女は執拗に手鏡を取り出しては何度も何度も自分の髪や顔を覗き込み、何か納得のいかないような顔をした。
寝癖は聡美が持っていたヘアスプレーやくしでとっくに直っていたのだが(オシャレに気を遣う人はそういったものを携帯しているのだ!奈津子は目から鱗だった)、彼女はいまだに気にしているような素振りだ。
あまりに頻繁に鏡を見ているので一度教授に注意されたのだが、それからも綾子はできるだけ隠れて鏡を見ているようだった。
どうもいつもの綾子ではない。
こっそり隠し持っていたチョコレート菓子を摘みながら奈津子は彼女を観察した。
よく見ればいつもよりも肌は青白く見えるし、顔は少し腫れているような気がする。
綾子と奈津子はあくまで大学内でだけ付き合いのあるような、仲良くとも浅い仲だ。
深い事情は奈津子の預かり知るところではない。
けれどもさすがに声をかけずにはいられず、周りに気づかれない声で「ねぇ、大丈夫?寝癖ならもう直ってるよ!」と言ってみた。
すると綾子はなぜか恐怖を押し殺すような顔をして奈津子にこう言ったのだ。
「ねぇ、わたしの顔ってこんなだったっけ」

4


それから綾子は日を重ねるごとに、寝癖どころではなく、髪はセットせず、パジャマのようなラフな服を着て来たかと思うと、化粧もしなくなっていった。
そして手鏡を手放さない。
綾子と仲のいい聡子や他の学科の友人たち、奈津子も声をかけたが彼女の返答は一貫して、「大丈夫」「気にしないで」「ねぇ、わたしの顔ってこんなだったっけ」それだけだった。
そしてある日、ぱたりと綾子は大学から姿を消した。
綾子とはそれっきりである。
あの頃は春で、今はもう秋だ、約半年は会っていないことになる。
当初、奈津子は綾子と仲の良かった聡美などにも話を聞いたが、真相はわからずじまいだった。
彼女らも奈津子と同様に綾子とは音信不通なようなのだ。
ただ1番仲の良かった聡美が言うには、奈津子と綾子が偶然ランチを共にした日の前日、綾子は彼氏に顔を叩かれていたらしい。
前から彼女は綾子から彼氏に関する悩みを聞いていたそうだ。
元から言動や素行の悪い彼氏ではあったが、顔を叩かれたのはあのときが初めてであったのではないかと話していた。
自分の外見によく気を遣っていた綾子である。
顔を叩かれ、そこが少し腫れてしまっていたとしたら、あの日何度も鏡を確認していたのはわかる気もする。
その後の彼女の変化を考えると、その彼氏とやらに続けて暴力を受けているか、もしくは何か酷い扱いをされていたり、監禁でもされて学校に来られないのではないかと奈津子は疑った。
当然それは聡美も同じ考えで、仲のいい友を数人引き連れその男に一度会いにいったそうだ。
奈津子たちの通っているS大学の最寄りからは電車で数駅のD大学にその彼氏は通っている。
S大学とD大学とはインカレサークルなどで交流している学生も多く、顔の広い聡美はその彼と同じサークルに入っている女学生を見つけだし、あいだを取り持ってもらうことに成功した。
だが彼に話を聞くと、綾子はちょうど学校に来なくなった頃から音信不通になり、そのまま会っていないという。
「俺も困ってるんだ、あいつはすぐ拗ねるし面倒だし、別れ話をするつもりだったからこのまま別れてもいい。」
などと少しの心配した素振りも見せず、言い訳ようなことをつらつらと言う男に聡美はついつい怒りを覚えてしまったそうだ。
彼女は綾子からほぼ毎日のようにこの男に関する相談を受けていた。
それでなくても親友と言っていいほどに仲の良かった綾子に全面的に肩入れするのは当たり前で、どんな理由をつけられてもこの男に同情するわけもなかった。
それで1発男の顔を引っ叩いて帰ってきたらしい。
「えっ、聡美が殴ったの!?」
奈津子は思わず驚いて話を遮った。
というのも、聡美はパッと見まったくそんなことをするようには見えない。
彼女は奈津子よりも少し低めの身長で小柄、肩までのボブはいつも緩めに巻いてカールさせ、可愛らしい印象が1番にくる。
特にその日はふわふわとした水色のカーディガンに白いレースのスカートを合わせていて、まるで無害の可愛らしい小動物そのものに見えた。
「だってムカつくでしょ」
笑顔のままそう語る聡美に、奈津子は少し背筋がヒヤッとした。
「でもやっぱりあの男は綾子には関係ないみたい。本気で心配もせずにあの子のこと放置してるみたいなんだよね。」
聡美の目から徐々に笑顔が消えていく。
「同じサークルに入ってる子からもあいつの様子を聞いたけど、これ幸いと合コンやら飲み会やら遊び歩いてるみたいだし、家に帰ってない日もけっこうあるってさ。綾子とは本当に会ってもなさそう。」
聡美の拳が震えていることに奈津子は気づいてしまった。
「ま……まあ、そんなやつ縁が切れた方がいいからさ……。勝手に離れてってくれるなら不幸中の幸いじゃないかな。」
聡美を刺激しないよう、奈津子は慎重に言葉を選んだ。
「まあ、そうなんだけどね。とにかく綾子が心配だよ。奈津子ちゃんも何か連絡とかあったら教えてね。」
そう言う聡美は今度はとても不安そうな今にも泣きそうな顔をしていた。
ああ、本当に二人は仲が良かったんだ。
奈津子は少しだけ他人事のように感じている自分が後ろめたく感じた。
そして綾子は姿を消したまま、彼女の消息のわかる情報もひとつも見つからないまま何ヶ月か経つと奈津子自身、彼女のことを大して思い出さなくなっていった。
そう、ほとんど忘れかけていたのに、奈津子は半年経った今になって突然彼女のことを思い出したのだ。

5


もう一度洗面台の鏡で自分自身の顔を確認する。
奈津子は数日前、バイト先で思いっきり転んでしまい顔を強く打った。
それから顔の左側が僅かに腫れてしまっている。
少し治ってきただろうか、赤みは引いているような気がする。
普段こんなにまじまじと鏡など見ないくせに、一度気にし始めると、何度も何度も鏡を確認してしまう。
次第に奈津子は「自分の顔ってこんなだったっけ」と思うようになった。
どれだけ腫れが引いたか確認しても、元の顔がどうだったのかを思い出せないのである。
周りの友人に何も変わらない、もう治ったから大丈夫だと言われても、自分でそれがわからないのだ。
どこが変わって、元の顔がどうだったのか。
何度も何度も鏡を見て確認してしまう。
そもそも怪我をする前の自分に戻ることなどあり得るのだろうか。
治って戻る、なんて事は可能なのだろうか。
一度怪我をしてしまったら、他人から見ていくら変化がないように見えても、『怪我をしてしまった人』のままなのではないだろうか。
奈津子自身だって、綾子の変化に少しも気が付かなかったではないか。
『他人という人間』から見た奈津子がいくらいつも通りに見えても、そこに信憑性はあるのだろうか。
……もしかしたら綾子もこんな気持ちだったのかもしれない。
奈津子がラーメンをすすっている間、綾子が話してくれていた話はこんな苦悩だったのかもしれなかった。
あまりにも薄情で酷いなぁわたしはなどと、穴が開くほど鏡を見ながら思った。
「ねぇ姉さん、わたしの顔って大丈夫だよね?」
奈津子は鏡越しに自らの背後に話しかけた。
近ごろは毎朝こんな感じで聞いてしまう。
姉さんは『他人という人間』には分類されない。
少しは言葉に説得力を感じるような気がするのだ。
「はぁ〜だから大丈夫って言ってるでしょ。あんたの不注意で転んだだけなんだから、そんな不安になる必要ないのに」
面倒くさそうに姉さんが答える。
いつも通りの言葉に奈津子は少しほっとした。
「綾子ちゃんみたいになる必要ないのよ、あんたは」
顔をもう一度洗い、タオルで覆うと真っ暗な視界の中で後ろからギュッと両肩を掴まれる感触がした。
だめだ、また「姉さん」に心配させてしまった。
思い切って顔を上げると、やはりまだ少し違和感のある顔がこちらを見ている。
前髪の少し濡れた黒いショートカット、いくら食べても太らない青白い顔、二重で少し吊り上がった目、その中の瞳は蛍光灯を反射しても黒く深く飲み込むように奈津子を見つめ返した。
これはわたしだ、わたしのはずだ。
奈津子はそれ以上深く考えることをやめた。
そもそも自分の顔にそれほどのこだわりもないじゃないか。
いつも通り手早くファンデーションを塗っていく。
鏡越しに見ると、少しだけ血色の良くなった奈津子の背後にはもう誰の姿も見えなかった。
良かった、これでいつも通りだ。
そして、急にお腹が空いてきた。
時計を見る、昨日バイト先でもらった惣菜パンを何個も頬張る、冷蔵庫の牛乳をパックのままがぶ飲みする、また時計を見る、あっやばいちょっと遅刻だ、小走りに玄関へ向かい誰もいない一人暮らしの部屋に向かって行ってきまーすと言う。
当然返事はない、いつもの奈津子の朝だ。
急いでいたから手鏡を家に忘れてきてしまった。
『なんだ、大丈夫だ。わたしはたぶんもう大丈夫。』
奈津子は都合の悪いことにただ目を塞いでいるだけなのかもしれない。
だが、それは別に悪いことではないだろうと自分に言い聞かせた。

6


大学へ向かう道のりはいつも通り、開店したての店の並ぶ小さな商店街を抜け、大きな通り沿いの歩道を抜けると古臭いが立派な私立女子大学の門が見えてくる。
学生たちが奈津子と同じように小走りでそちらに向かったり、諦め顔でのんびり欠伸をしていたり、友達同士で携帯を見ながら騒いでいたりしている。
本当にいつも通りの平和な朝だ。
奈津子は安堵のため息をついた。
携帯を取り出し時間を見て慌てて走り出す。
のんびり歩く女学生たちを追い抜きながら出し抜けに嗅いだことのある懐かしい香りがした。
それは甘い花の香りに海の汐風が混ざったような独特な香りだった。
綾子だ、瞬時にそう思った。
居なくなる少し前から彼女が愛用していた複雑な香水の香り。
今追い越そうとしている前方の女性に目を止めると、ハーフアップに緩く巻いた髪、ピンクのトップスに長いタイトスカート、背丈も服装も綾子にそっくりな後ろ姿だ。
しかし、正直このような外見の学生はたくさんいるし、ファッションに疎い奈津子にとっては尚更違いがわからない。
そして何より、今綾子の顔を見て本人だと確証できるか奈津子には自信がなかった。
酷い話だ、いくら半年会っていないからと言って同じ学科でクラスで隣の席だった友人の顔を忘れるなんて。
だが、どう思い出そうとしても綾子の顔が思い浮かばない。
服装や言動、どのような会話をして一緒に何をしたのかは思い出せるのに、その記憶の全ての綾子の顔は黒く塗りつぶしたようにぼんやりとして、はっきりと思い出せないのだ。
奈津子が前進すると甘い花と汐の匂いが強くなっていく、その人を追い抜くとき、ちらりと顔を見てみた。
綾子に似ている気もするが、少しも似ていないような気もする……。
やはりわからない。
その人はすぐ横を通り過ぎる奈津子に声をかけるでもなかった。
向こうもこちらがわからないのだとしたら、やはり別人なのだろうか。
気まずいのでしばらく走ったあと不自然に思われない距離からもう一度振り返ってみる。
ところがもう綾子に似たその人を見つけることはできなかった。
聡美ならわかったのだろうか、あれが綾子なのかどうか、彼女なら一目でわかるのだろうか。
自分にはわからなかった、なぜだかそれがとてつもなく後ろめたく、罪深いことのように思えた。
途端に腹が大きく鳴った。
ああ、まただ、さっき大量のパンと牛乳を流し込んだのに。
奈津子は『こういうこと』があるといつも非常にお腹が空く。
こういうこと、というのは訳もなく戸惑うことや、何か違和感のあることが起きたとき、あと今朝のように『お姉ちゃん』と話すときだ。
このことについて奈津子当人は大して深く考えることはない。
考えようにも、どんどんお腹は空くし、食べれば食べるほど満たされてどうでも良くなるのだ。

7


「奈津子ちゃん!おはよ」
正門を抜け、しばらく走ったところで突如明るい声がして、奈津子は文字通りほんの少し飛び上がった。
奈津子の走る歩道が直進の校舎と右側へ伸びる部室棟への道とで二股に分かれているあたりで、明るくした癖毛にふわっとしたワンピース姿の女性がこちらに手を振っている。
奈津子の所属している部活の、一つ学年が上の三上先輩だ。
これから部室へ向かうところなのだろうか。
少しぽっちゃりした彼女はいつもお菓子を持ち歩いており、周りの友人や先輩後輩に笑顔で配るのが日課だった。
その見た目も雰囲気もほんわか丸い印象に、部活内では先輩後輩関わらず大変慕われていた。
「ほらー、これあげるねー!」
三上先輩が何かを投げて寄越した。
きっとお菓子だ。
上手くキャッチすると、奈津子の手には『カロリーたっぷりチョコバープロテイン入り』が握られていた。
これ一つでお腹が満たされるやつだ、奈津子は目を輝かせた。
「お腹空いてるでしょうー?授業がんばりなー!」
先輩はなぜか奈津子のお腹の空いているタイミングを見計らうのがいつも上手い。
「ありがとう先輩ー!!!」
そう叫びながらあと一分で辿り着かないといけない教室へダッシュした。
走りながらさっそくチョコバーを齧ると口いっぱいに甘い香りが広がり、先ほどの香水の匂いなど吹き飛んでしまった。
授業の始まりの鐘の最初の一音が響く。
鳴り止むまでには辿り着けそうだ。
選択授業だから聡美とは異なるクラスだ、綾子に似た人を見かけたことを話すべきか考える必要もない。
そう思うと再び奈津子の心は軽くなった。
席についてチョコバーを一気に飲み込む、間髪入れずに始まる授業に低い一定に響く教授の声、軽い運動をしたあとの心地のいい疲労感、満たされたお腹。
奈津子の頭にはもう綾子のことなど欠片もなかった。
お昼休みには部室へ行って備え付けのソファでお昼寝でもしようか。
三上先輩は居るだろうか、また美味しいものをもらってしまったからお礼をしなくちゃなぁ。
などと考えながら、窓から刺す午前の日差しに思わず奈津子は欠伸をし、軽く目を閉じた。

この話はフィクションです。実在する人物や団体には一切関係ありません。

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