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短歌五十音(の)野口あや子『くびすじの欠片』

青春は、食べて、飲む。

『くびすじの欠片』は、2009年に刊行された野口あや子の第一歌集。
また、2023年に文庫版として刊行されており、本稿では、文庫版のご紹介をする。

本歌集は、著者の15歳から20歳までの作品311首が収録されている。
全体が2部に分かれており、第1章は、短歌研究新人賞受賞作品「カシスドロップ」、同賞次席作品「セロファンの鞄」を中心に、2006年まで(著者19歳までと考えられる)の作品で構成され、第2章は、本歌集のために書き下ろされた連作「ミネラルウォーター」を含む第1章以降の作品が収録されている。

青春期・思春期からその終わりの時期までというとても繊細な時期の情景・心象風景がストレートな台詞から詩的な表現まで様々な言葉として迫ってくる。

そして、歌の中では、様々な飲食物が印象的に登場する。

すさあっと泡生みながら溢れだすジンジャーエール 雪の残り香
真っ直ぐに袋に入らないポテトみたいな感じで夕焼けふたり
「チキンバーガーといっても色々あるもので」老女に言えば生まれ来くる川

『マクドナルド』

まずご紹介したいのは『マクドナルド』という連作である。
マクドナルドは、思春期の自由に使えるお金が少ない子供たちにとって、ご飯を食べたり、おしゃべりをしたりする場である。
この連作の中では、たくさんの食べものが登場する。
1首目、勢いよく注がれたジンジャーエールから生き生きと泡があふれてくる。「すさあ」というオノマトペが独特だが的確で情景が鮮やかに浮かぶ。結句の一字空けの「雪の残り香」でイメージのスケールが大きくなる。
2首目、マクドナルドのビニール袋は、商品が入るのにちょうどの大きさになっており、うまく袋に入らないようなことがある。それを比喩として二人の微妙な関係を描いているところに実感がある。
3首目、主体はマクドナルドで働いているようで、老女に対しチキンバーガーの種類を説明している。しかし、なかなか意思疎通ができないのであろう。支流の多い川のイメージが生まれているところにユーモラスな感じがする。

振り回すコーラ缶から向日葵が咲いて溢れてとまらない夏
なにもかも決めかねている日々ののち ぱしゅっとあける三ツ矢サイダー
わがままを試されている 角砂糖が炭酸水に溶けていくまで
私の弱い部分を見せながらジンジャーエール差し出している

(引用順)『ヘアピン・ピアノ』『愛なんて言う』『カシスドロップ』『或る国語教師へ』

特定のものがモチーフとして繰り返し使われているところが、本歌集の一つの特徴である。しかし、同じものが使われていても、そのイメージは微妙に異なるものとなっているところに作者の詩性がある。
ここに並べた4首には、コーラ、三ツ矢サイダー、炭酸水、ジンジャーエールという炭酸飲料が含まれている。
1首目、「向日葵が咲いて溢れてとまらない」という夏の喜びを象徴するようなものと並ぶ破裂しそうなコーラ缶が登場している。
2首目では、思春期特有のどこか決めきれない憂鬱な感じが漂う。そんな日々を断ち切るように三ツ矢サイダーの缶を開けている。
3首目、「わがままを試されている」というところに自分の能力を何か計られているような状態がある。角砂糖を炭酸水に溶かすということで炭酸水の味を変えているところに、自分に何か負荷がかかっていることに対して、どのように対応すればいいのか、自らを炭酸水になぞらえている。
4首目、ジンジャーエールを相手に差し出している場面。この連作は「或る国語教師へ」というタイトルがついており、一連からは生徒である主体から教師への恋愛的な好意の感情が見えるところがあり、主体の弱い部分の象徴としてのジンジャーエールが印象的。

青春の心拍として一粒のカシスドロップ白地図に置く
2x-5y=0 ピーチミントのガム噛みながら
制服のかたちを丸くするわれのかなしみとして濃きミントガム

(引用順)『カシスドロップ』『セロファンの鞄』『或る国語教師へ』

次に、ガムや飴を取り上げたい。
1首目は、短歌研究新人賞を受賞した『カシスドロップ』の表題歌になっている歌。カシスドロップという小さな飴が青春の心拍になぞらえられているところにとても実感があるとともに、それを白地図に置くという行為に、これからどんな未来でも描けるという青春の姿が歌に詰まっている。
2首目、「2x-5y=0」という方程式。これを考えながらガムを噛んでいる。ピーチミントのガムというところに、どこか甘ったるく、退屈なイメージがある。ちなみに、掲出の方程式の解は、x=0, y=0。そこにも不毛さがある。
3首目、結句で置かれている濃いミントガムの印象が強い。「制服のかたちを丸くする」は、既製服として決められた形である制服の形を変形させるイメージ。決められたものに閉じ込められた主体の感情の表出として「かなしみ」という言葉がストレートにある。

強かった祖父の入れ歯のことなどを つゆに浸したままのそうめん
恋人の悪口ばかり言いながら持て余している桃のジェラート
胸元でやわらかくなるピスタチオいま会いたいのすぐ会いたいの

(引用順)『螺旋階段』『桃のジェラート』『螺旋階段』

この他にもいくつか食べものや飲みものが出てくる印象的な歌をあげたい。
1首目、家庭での会話の場面だろうか。下の句の「つゆに浸したままのそうめん」というのが、じっくり話を聞いていて食事がなかなか進まない様子にも、食事に飽きたが場を離れられない様子にも見える。微妙な感情が「つゆに浸したままのそうめん」という光景に印象的に浮かぶ。
2首目、親しいもの同士で食事をしているときに、恋人の悪口ばかりに終始して、持て余されている桃のジェラートが象徴的に置かれている。時間が経つことによって、ジェラートは溶けていく。その時間の経過までこの歌の中に存在する。
3首目、ストレートな言葉遣いの下の句に対して、胸元で柔らかくなるピスタチオには殻に包まれたピスタチオの中の部分だけ柔らかくなるようなイメージがあり、主体が会いたい人への気持ちを高めながら、どこかとろけてしまうような甘い雰囲気がある。

ここまで 第1章の歌を引いてきた。
冒頭でも書いたとおり、第1章は青春期の歌である。
そしてここから先は、第2章から歌を引く。
その時間の経過として象徴的な『少女期終わる』と題された連作があり、その中から印象的なものを引きたい。

飛べぬまま夏を過ごしてコーラからストロー抜けばちゃいろいしずく
ゆるすことゆるされることそのどちらも砂糖まみれのさみしい薬

『少女期おわる』

1首目、「飛べぬまま夏を過ごして」には、夏に象徴される青春期が終わりにさしかかったが、飛躍することができなかった感情が見える。これまで引いた歌の中で、どちらかというとポジティブなイメージで読まれていた炭酸飲料(コーラ)が、「ちゃいろいしずく」に変化して、炭酸のいいところはなくなってしまい、それとともに青春の終わりのイメージが湧く。
2首目、砂糖まみれの寂しい薬は、本当の薬の糖衣錠か、もしくは何かのお菓子を元気になれるものとして薬に例えているか。「ゆるす」という態度は、他者へのゆるしとも、自分へのゆるしともとれる。青春期を超えて、社会の一員として生活していく中で、妥協したりすることも多く、そういった処世術を身に着けて社会をなんとなくこなしていってしまうことへの「さみしさ」を感じた。

キスのないセックスはありえないときみラムネの壜のビー玉からん
わたしからはじめるときの散らばった和三盆なめるはかなさ
わたくしがわたしを愛する抱かれ方つめたくミネラルウォーター空ける

(引用順)『間奏なし』『ミネラルウォーター』(2,3首目)

また成長の一つの形として、性愛に関する歌も複数登場する。
そしてそこにも食べものや飲みものが印象的に登場する。
1首目、「キスのないセックスはありえないときみ」これは主体の相手が感情のこもったようなセックスを求めているという意味ととれる。一方、下の句の「ラムネの瓶のビー玉からん」は、乾いたような印象。主体は、相手の甘い言葉をその文字通りに受け止められず、どこか冷めた感じで受け止めているようだ。
2首目、「わたしからはじめるとき」は、女性である主体が男性に対して性的な行為を自分から始めるという意味と取った。その状態について、「散らばった和三盆をなめるはかなさ」という言葉が添えられており、主体にとってあまり本意ではないようなことだが、相手が少し喜んでくれる、そのことで自分が少し喜べる、しかしその喜びは決して長いものではないというような感覚が浮かび上がる。
3首目、性愛を知ったからこそ、自分で自分を抱きしめるということに意味が強く持たれる。「わたくしがわたしを愛する抱かれ方」には自立した女性としての主体の姿が現れる。「つめたくミネラルウォーター開ける」という部分には、前半に引用した歌にあったような飲みものから何か強いイメージが受けるというよりは、主体自身が必要なものとして、ミネラルウォーターを主体的に選んでいるような姿があり、自立した大人の姿が感じられる。

ふてぶてしくおんなを生きるわたくしはジュレに犬歯であなあけており
兵役を忘れたあしたじくじくとマーマレードを食パンに塗る
ああわかるそれもそうよね小さめのフォークでぼろぼろにしているタルト

(引用順)『立葵』『短銃』『短きレス』

一方、大人になっていく主体は、単に寂しさなどを抱えているだけではなく、ふてぶてしさや強さを身につけていってもいる。
1首目、「ふてぶてしくおんなを生きる」という言葉からは女性として、生きることの困難さはたくさんあるが、その困難さを逆手にとってでも強く生きるという言葉に思える。「ジュレに犬歯であなあけており」というのは、ジュレ自体は柔らかいものではあるが、あえてそこに犬歯を当て、自らの中のある種の野性味のようなもの、強く生きるために必要なもの、が提示されている。
2首目、「兵役」という強い言葉から始まる歌だが、実際には仕事や学校などに出て行く時の場面だろう。「じくじくとマーマレードを食パンを塗る」という情景は、「じくじく」というオノマトペがどこかグロテスクさやいやらしさがあり、さわやかさはないものの、強く生きるために必要なものとして朝食を食べているような姿が見える。
3首目、「ああわかるそれもそうよね」という相槌により相手への同調を示しながら、手元では小さめのフォークでボロボロにタルトを壊している。複数のことを同時に行わなければならなかったり、意に沿うか・反するかを吟味することが許されずに意思を表明しなけらばならないようなことは、大人になると増えてくる。そんな場面がさらりと描かれている。

他にもたくさん印象的な歌があるが、本稿では、食べものや飲みものに注目して歌を引いた。
著者は、あとがきでこのように書いている。

短歌に自分のかけらを再構成させる役割を持たせてしまうことには、いつもどこかで短歌に対してふてぶてしいなと思っています。しかし短歌を作るには、ある種の脆さと、それにつりあうふてぶてしさが必要だと私は思います。

あとがき

野口あや子は、自らの感覚を「欠片」という形にして短歌にしている。
それゆえに創作時期によって、その欠片にその時代性が現れており、まさに 思春期からその思春期の終わりまでの期間に、どのような考えや目に見えるものがあったのか、この歌集を通して読むことで感じられる。
またその感じられる感情は、私たち自身の思春期の時代やまたその思春期の終わりに感じたいろいろな感情とシンクロして、とても心に響く。
歌集自体は、もともと 2009年に刊行されたものではあるが、昨年2023年に 文庫版として復刻されており、文庫版については、1200円(税別)と歌集としてはリーズナブルな価格で購入可能であり、是非この歌集を読んで野口あや子さんの世界に飛び込んで欲しい。

次回予告

「短歌五十音」では、初夏みどり、桜庭紀子、ぽっぷこーんじぇる、中森温泉の4人のメンバーが週替りで、五十音順に一人の歌人、一冊の歌集を紹介しています。

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お読みいただきありがとうございました。
本稿が、みなさまと歌人の出会いの場になれば嬉しいです。

次回は初夏みどりさんが早川詩織さんの『早川詩織集』を紹介します。
お楽しみに!

短歌五十音メンバー

初夏みどり
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桜庭紀子
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ぽっぷこーんじぇる
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中森温泉
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